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家族のカタチ ③




世界が滲んだ。

一滴一滴、滴が落ちては世界の持つ色や輪郭をぼやかしていく。

元に戻すことはもう出来ない。

頑張って似せた物を作っても、

別の美しい世界を作ってみても、

これから先、私の望む世界は訪れないのだろう。

青い空が、黒く塗り潰されていく。

どれだけ泣いただろう。

出尽くしたと思っても、涙が溢れ出してくる。

この世界は真っ暗になってしまった。

すすり泣く声だけが狭い世界に反響する。

私は今、どんな顔をしているのだろう。

きっと酷い顔をしているんだろうな。

あなたを想う。

どんなに願っても、あなたは帰ってこない。

きっと、もう二度と会えない。

そんなこと分かっているのに、それでも再会を待ち望んでしまう。

“あの時”あなたの事を追いかけていたなら、結末は変わっていたのかな。

あの時、追いかけていたら。

あの時、気付いていたら。

“あの女”さえ、いなかったら。

どうしようもないたらればが脳裏をよぎる。

形のない、どす黒い何かが胸の中に広がっていく。

私が何をしたの?

不平不満も言わずに一生懸命家の事をやったじゃない。

あの女の事だって、ずっと我慢してきた。

それなのに何で…どうして、こうなってしまったの?

私の何がいけなかったの?

会いに来て、教えてよ。

全部直してみせるから。

あなたにとって、都合の良い私でいるから。

───だから、帰ってきてよ。

あなたのいない人生なんて考えられない。

本気で愛していたのに、

こんな終わり方、やるせないよ。

ラブソングにだってなりやしない。

見つめ会うだけで、笑い合った。

手を繋ぐだけで、心が満たされた。

そんな日々は、もう返ってこないのかな。

過去も未来も、現在だって、

全てあなたに捧げた。

本当なら、彼が憎くて仕方がないなずなのに、今にでも探し出して見つけようとしている自分がいる。

それほどまでに私は〇〇の事を愛しているんだ。

〇〇は私の事を愛していたのかな?

お義姉さんの方が好きだった?

体の相性が私よりも良かった?

どんなに考えても、正解は出ないし分からない。

認めたくない、目を背けたくなるような現実が私を見つめてニヤりと笑いながら近付いてくる。

恐ろしいほどに、禍々しい姿をしている。

“やめて!来ないでッ!!”

私がそう叫ぶと、すぅっと姿を消した。

───ねぇ、〇〇。

あなたがいなきゃやだよ。

光も差さないような世界で、どうやって生きていけばいいの?

お願いだから、帰ってきてよ。

私の目を見つめて笑ってくれたら、

私の体を抱き寄せて“ごめん”って言ってくれたら、それでいいのに─────

………

気が付けば、朝を迎えていた。

時刻は6時30分。

〇〇が出ていったのが4時過ぎの事だったから、私は二時間以上も時間を忘れて、泣いていたようだ。

すっかり冬を迎える準備を終えた晩秋の朝は、すっかり冷たい空気を纏っていた。

けれどそんなことは些細な問題でしかなくて、今私の頭の中にあるのは別の問題だった。

それは、祐希と飛鳥の事だった。

二人とも〇〇の事を心の底から慕っていた。

そんな人が突然いなくなってしまったら、計り知れない程のショックを受けるだろう。

あの子達も子供じゃない。

けれど、今回の事を受け止めきれるほど大人でもない。

私だって未だに事実を受け止められずに泣いているのだから。

かといって、嘘をつくわけにもいかない。

素直に事実を伝えるしかないだろう。

その時

ガチャッ

と、リビングのドアが開く音がした。

視線をやると、祐希が寝ぼけ眼をこすりながら立っていた。

「んぅ…おはよ、お姉ちゃん…」

まだ何も知らない祐希は、いつもの寝起きと何ら変わらない。

それを歪めてしまうのが、あまりにも申し訳なかった。

「おはよ、祐希」

精一杯に笑顔を取り繕う。

けれど、祐希は簡単に見抜いたらしい。

次の瞬間には、私に心配そうな目付きを向けていた。

「何かあったん?」

「ううん、何にもないよ」

そんなわけないのに。

私の嘘つき。

今度は全く笑えていなかったと思う。

けど、祐希はただならぬ事情を察したのか、それ以上は何も言わなかった。

「あっ、おにーちゃんまだ起きてないん?祐希が起こしてくるっ!」

そして次の瞬間にはいつものように笑顔を浮かべてそう言った。

でも、祐希のその言葉で、私の心は締め付けられる。

もう、〇〇はいないから。

───あぁ、ダメだ。

祐希に伝えなくちゃいけないのに、自然と涙が溢れて止まらない。

「お姉ちゃん…?」

寝室へと向かおうとしていた祐希は、泣いている私に気付いて立ち止まっていた。

ソファーに座り、祐希に背を向けたまま、私はゆっくりと口を開く。

この事実を口にしてしまうことが、怖くて仕方がない。

───もう、居ないの。

心が、じわじわと酸に溶かされていくように苦しかった。

その一言を言うのにどれだけの時間を要しただろう。

「えっ?」

祐希の素っ頓狂な声で私は顔を上げ、祐希の方へ顔を向けた。

今の一言では、全てを表すことに無理があるのは分かりきっていた。

しかし、めちゃくちゃに打ちのめされてしまった私の心にはこれが精一杯の言葉だった。

「〇〇は、もう、居ないの」

自らの口が発したその言葉で、私は息を詰まらせる。

私が涙を流している事に加えて、今の言葉で何となく理解してきているのだろう、祐希の表情はみるみる青ざめていった。

「もう、仕事に行ったの?」

それでも祐希は、その疑念を最後まで振り払おうとしていた。

私は涙の溜まった目で祐希をじっと見つめてかぶりを振る。

そして、静かに目を伏せた。

一段と大きな滴が頬を伝った。

段々と、祐希の目にも涙が浮かんできているのが分かった。

「そんな…嘘、嘘だよね…?」

私は何も言えなかった。

何も言えずにただ、下を向いた。

それで全てを理解した祐希はその場に座り込んで大声を上げて泣き出した。

私はソファーから立ち上がって祐希の前にしゃがみこむ。

そして、優しく抱き寄せた。

一段と祐希の泣き声がボリュームを増した。

私はただただ、祐希の背中を擦った。

その瞬間、リビングのドアが開く。

「どうしたの」

振り返るとそこには、パジャマ姿の飛鳥がまだ眠そうなその目を私達に向けて立っていた。

「飛鳥…」

そうだ、私や祐希よりも辛いのはきっと飛鳥だ。

実の姉と兄が同時に家から出ていくなんて、こんなに辛いことはない。

まだ何も知らない飛鳥と、ずっと泣き続けている祐希を椅子に座らせる。

そして私は、思い出したくもない僅か数時間前の出来事をありのまま二人に話し始めた。

「───だから、もう〇〇は…」

ずっと涙を拭い続けている祐希。

涙こそ流していないものの、とてつもなく大きなショックを受けているであろう飛鳥。

再び口を開くのも億劫になってしまうような重苦しい空気がリビング立ち込めていた。

そんな空気の中で、飛鳥が突然口を開いた。

「私は、諦めたく、ないっ…」

声が震えている。

明らかに泣く事を堪えているのが分かる。

「お兄ちゃんがいない人生なんて、嫌だっ…!」

こんな時くらい、泣いたっていいのに。

飛鳥は必死に天井を見上げている。

彼女は強い。

だからこそ人前で泣かない。

それが家族の前であっても。

そして、彼女は弱い。

だからこそ人前で泣けない。

私がそのか細い体を抱き締めたなら、彼女はすぐ赤ん坊のように泣いてしまうだろう。

彼女が泣くことを良しとしないのなら、私は彼女に対して何もするべきではないのかもしれない。

そして、飛鳥は再び口を開いた。

“もう一回お兄ちゃんに会いたいよ…”

今にも途切れてしまいそうな糸を紡いで編み出された言葉。

頷くまでもない、満場一致の意見だった。

外は、私達の涙を誤魔化すような雨が降っていた。

雨が少しずつ止んでいく。

「探そう、〇〇のこと」

祐希と飛鳥は、何度も首を縦に振った。

今はまだ、ショックが大きすぎて前なんて向けない。

けれど、過去を振り返ってただ嘆くような事はしたくない。

それなら、出来ることをしたい。

───〇〇。

あなたがどんな想いでこの家を出ていったのか、私には分からない。

何か事情があったのか、それともあの女の事を諦めきれなかったのか。

でも、何処に居たって必ず見つけ出すから。

そしてあなたともう一度笑い合って、ハグをして、キスをしたい。

その日が来るまで、私は何があろうと諦めない。

全て乗り越えて、あなたに会いに行く。

そして、また一緒に笑い合おう。

それが私の…いや、“私達”のハッピーエンドだから───

────────────────────

朝一番に見たお姉ちゃんの笑顔はどう見ても、必死に取り繕ったような、そんな笑顔だった。

でも、寝ぼけ眼ながらも私には見えていた。

お姉ちゃんの心に深く深く突き刺さるナイフが。

何かあったのかと聞いてみてもお姉ちゃんは答えなかった。

お姉ちゃんが明るく振る舞おうとしているのなら、触れない方がいい。

私はそう考えた。

そして、この時間には起きているはずのおにーちゃんがいないことに気が付き、起こしに行こうとすると、むせび泣く声が聞こえた。

やっぱり、何かあったんだ。

立ち止まって、お姉ちゃんの方へ向き直る。

すると、お姉ちゃんはしばらく黙った後に突然、

「もう、いないの」

そう言った。

何を言ってるか分からず、私は聞き直した。

するとお姉ちゃんは俯いていた顔を上げて、私の方へと向き直った。

「〇〇は、もう、いないの」

その一言と、お姉ちゃんの大粒の涙で私は全てを理解した。

何があったのかは分からない。

けど、お兄ちゃんは家を出ていったんだ。

その瞬間、突如黒い靄が現れて私の心を飲み込んだ。

太陽が、奪われたんだ。

違う、そんなわけがない。

そんなこと、あっていいわけがない。

「もう、仕事に行ったの?」

靄を振り払うようにして、必死に吐き出した言葉も苦し紛れでしかなかったし、違うって自分でも分かっていた。

なのに、泣きながら否定するお姉ちゃんを見た瞬間、心が音を立てて崩壊していくのが分かった。

それに伴って溢れだす涙。

「そんな…嘘、嘘だよね…?」

本当だって分かっているのに、そう聞かずにはいられなかった。

お姉ちゃんは何も言わずに、静かに下を向いた。

太陽が沈んでいく。

二度と昇ることのない太陽が、海の向こう側で。

私は大声を上げて泣いた。

子供の頃だってこんなには泣かなかったと思う。

そして、お姉ちゃんに優しく背中を擦られた時に、堰を切ったように涙が流れ出した。

その直後、飛鳥がリビングにやってきた。

そうだ、もしかすると一番辛いのは飛鳥かもしれない。

長年一緒にいたおにーちゃんが一夜にしていなくなったんだ。

時間が比例する訳じゃないけれど、私やお姉ちゃんとは比べ物にならない悲しみがある。

そしてお姉ちゃんは私と飛鳥にありのままの出来事を話してくれた。

「───だから、もう〇〇は…」

全ての話を聞き終えて、私は言葉が出なかった。

代わりに涙が量を増すばかりだった。

一番愛していた人を失ったお姉ちゃん、

生まれてからずっと一緒に過ごしてきたおにーちゃんを失った飛鳥。

二人の事を思うと涙は止めどなく流れ続ける。

誰も口を開かない。

沈黙と嗚咽が続く。

しかし、突如飛鳥が口を開いた。

「私は、諦めたく、ないっ…」

「お兄ちゃんがいない人生なんて、嫌だっ…!」

「もう一回、お兄ちゃんに会いたいよ…」

悲痛な叫びが私の砕けた心を揺さぶる。

涙を堪える飛鳥の横顔は、いつもより少しだけ輪郭がぼやけていた。

「探そう、〇〇のこと」

お姉ちゃんは変わらず泣いていたけれど、目の奥に秘めた決意のような物を感じた。

私はその言葉に何度も何度も頷いた。

おにーちゃんがおねーちゃんの後を追いかけたというのなら、きっとそういうことなんだろうと思う。

家族よりも、おねーちゃんを選んだことは物凄く悲しいことだけど、祐希は諦めたくない。

祐希はおにーちゃんの事が大好きだから。

それは何があっても変わらない。

不思議と、おにーちゃんがどこにいても会える気がしている。

必ずもう一度会って、いっぱいお話しして、いっぱいぎゅーってしてもらうんだ。

だから、次おにーちゃんに会うまでもう泣かないよ。

祐希、頑張るからね。

────────────────────

その日はいつもより、目覚めが良かった。

いや、目覚めが良かったというよりは、一刻も早く目を覚まさなければならない。そんな気がして、目覚めた瞬間から意識がはっきりとしていた。

外には曇り空が広がっていて、冷たい空気が冬の訪れを感じさせていた。

いつもなら私は、目覚めてから体を起こした時に大きく伸びをする。

しかし、今日ばかりはそんな事さえしている暇はない。そんな気がしていた。

時刻は6時30分。

いつも通りの時間に起きたにも関わらず、何故私は急いているのだろうか。

ベッドから下りて、部屋を出る。

リビングへと繋がる廊下を歩く。

私はいつもと違う空気感を肌で感じ取った。

どう違うのかは正確に言い表せない。

けれど、いつもよりずっと寂しさを感じてしまうような空気感だった。

リビングから祐希が大声を上げて泣いているのが聞こえてきた。

一体何があったの?

別に祐希が泣くこと自体は特別珍しい事じゃない。

今までだって何度もどうでも良いことで泣いているのを見てきた。

だけど、今回ばかりは訳が違うような気がしてならなかった。

リビングのドアの前に立って、一つ深呼吸をした。

意を決して、ドアを開ける。

するとそこには、抱き合う祐希と七瀬の姿があった。

こちら側に顔を向けている祐希の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

ここまで泣いているのは見たことがなかった。

私に背を向けている七瀬も、肩を震わせていることから泣いている事が分かる。

一体、何が起きているの?

どう考えても、良くないことが起きているのは明白だった。

そして、この時間にお兄ちゃんが起きていないことがより一層思考をマイナス方向へと加速させる。

「どうしたの?」

二人の視線が私に向けられる。

その瞳には、哀れみや同情といった感情が内包されているのが分かった。

心に翳りが見えてくる。

七瀬は涙を拭ってから立ち上がり、私と祐希を椅子に座らせた。

そして、つい数時間ほど前の事を話し出した。

「───だから、もう〇〇は…」

あまりの衝撃に、言葉が出なかった。

心を鈍器で力任せに殴られたような気分だった。

息をするのも難しいほどぐちゃぐちゃに、歪にされて、その上穴だらけ。

それを心と形容することすら最早難しい。

痛い、苦しい、辛い。

もうやめてよ、何も言わないで。


“行かないで”


そう願うには遅すぎた。

お兄ちゃんの姿が遠ざかって小さくなるにつれて、お兄ちゃんという存在が大きくなっていく。

こんなに辛いことはない。

涙が溢れてくる。

けれど、頬を伝うことだけは絶対に許さなかった。

上を向いて、必死にこらえる。

“あの日”の約束を守るために。

沈黙が続く中、私は口を開く。

「私は、諦めたく、ないっ…」

震える声で、必死に想いを吐き出す。

「お兄ちゃんがいない人生なんて、嫌だっ…!」

そんなの、考えられるわけがない。

ずっと一緒に過ごしてきて、

ずっとずっと大好きだったのに。

「もう一回、お兄ちゃんに会いたいよ…」

こんな終わり方、絶対に嫌だ。

こんな終わり方が、あっていいわけがない。

「探そう、〇〇のこと」

突如七瀬がそう言った。

その言葉に私は何度も何度も頷いた。

辛くて、痛くて、苦しいけれど、このままお兄ちゃんがいない人生を送る方がもっと辛い。

私は絶対に諦めない。

───お兄ちゃん、待っててね。

必ず会いに行くから。

必ず、必ず…

“あの女”から、連れ戻すからね───


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