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家族のカタチ ⑦

お父さんとお母さんの葬儀が終わって、残すところは精進落としのみとなった。

しかし、喪失感が拭えず心がモヤモヤとしていた私は、一旦落ち着こうと傘を持って外に出た。

徐々にその勢いを加速させている雨が、今だけは優しく思えた。

外に出たはいいものの、特別目的があったわけではない。

数分程適当にぶらついたら中に戻ろう。

そんなことを考えて一歩踏み出すと、私の視界に一人の男性の後ろ姿が映り込んだ。

その瞬間心がギュッと締めつけられて、呼吸すらも忘れてしまうくらいに苦しくなった。

何度も何度も名前を呼んで追いかけた背中。

どんな格好をしていたって、見間違えるわけがない。

体の中で沈没していた想いが涙となって溢れ出す。

それと同時に私は、大声で彼の名を叫んだ。

“おにーちゃん!!!”

傘を放り出して駆ける。

雨の冷たさなんか、今更どうってことない。

そんなことよりも、もっともっと大事なことがあって。

この想いを伝えないと、きっと私は永遠に後悔してしまう。

届け、届け─────

動くことのなかったおにーちゃんの元に辿り着いた私は、駆けた勢いそのままに背中へ抱きついた。

今までよりずっと強く抱き締める。

もう離れない、離さない。

「やっと…やっと会えた…!」

お兄ちゃんの喪服に涙が染みていく。

私の想いも、こうしてお兄ちゃんに伝わってるのかな。

感情溢れる私とは正反対に、お兄ちゃんは微動だにせず感情も慣れ親しんだその背中からは分からない。

今すぐその顔を見たい。

お互いに笑って、

“おかえり”

“ただいま”

って。

でも今は、

今だけは、失った時間を、ぽっかりと空いてしまった穴を埋めてしまいたかった。

沈黙が続く。

今の私にはそんな時間すらもたまらなく愛おしい。

しかし私はそれと同時に分かってしまった。

お兄ちゃんは私達の元に戻ってきた訳じゃないんだって。

お父さんとお母さんの事を弔いに来ただけなんだって。

そこから来る後ろめたさが、この沈黙を生んでいることを。

でも、この際理由なんてどうでも良かった。

今、目の前にお兄ちゃんがいる。

それだけは事実だ。

「…風邪引くだろ、早く戻れよ」

きっと沢山の葛藤があったんだろう。

待ち望んだ第一声は、期待していた言葉とはかけ離れていたけれど、それでもお兄ちゃんの優しさを充分に感じられる物だった。

でもごめんね、お兄ちゃん。

祐希今だけは、いい子じゃいられない。

「やだ!絶対に離れないッ!!」

溢れる感情をそのまま叫ぶ。

僅かに震えたお兄ちゃんの体をより強く抱き締める。

するとその直後、私の手にお兄ちゃんの手が重なった。

そして私の冷えた手を優しく包み込んだ。

お兄ちゃんの手だって冷たいのに、どうしてか私にはすごく温かく感じられて、ずっと動揺を見せていた心が落ち着いていくのが分かった。

「俺はもう、祐希達とは一緒にいられない」

それなのに、現実は酷く残酷で。

一声で分かってしまう程の申し訳なさそうな声が、私には辛くて。

「やだ…そんなのやだよ…」

どんどん心が溺れて喋れなくなっていく。

何かを言おうとしても、実際は口がぱくぱくと情けなく動くだけだった。

もう、ダメなんだ。

お兄ちゃんは、もう戻ってこないんだ。

分かりたくもないのに、分かってしまって。

目の前にいるのに、心はずっと遠い。

いつの間にか世界は真っ暗闇に包まれて、私は今どこにいて、何をしているのか、そんな当たり前の事すら見失ってしまいそうだった。

そしてとうとう私は、抱き留めていた腕をお兄ちゃんから離してしまった。

全身から力が抜けて、立っているのもやっとで。

そんな極限のような状態でも、涙は決壊したダムのように止まってくれない。

“───ようやく会えたのに、

どうして行ってしまうの?

私達は家族なのに、どうして一緒にいられないの?

今日までやってきたことは全て無駄だったの?

私達の事なんて、どうでも良くなってしまったの?”

様々な感情やこれまでの日々が頭の中を駆け巡るが、現実という壁に阻まれて一瞬にして灰塵と化してしまった。

もうお兄ちゃんのことは諦めるしかないのかな。

忘れてしまうことしか、出来ないのかな。

全てなかったことにして、お姉ちゃんと飛鳥と、三人でゼロからのスタート?

そんなの無理だ、絶対に出来っこない。

これだけ深く心に根付いた存在をなかったことにするなんて、きっと私達には出来ない。

───じゃあ、どうすれば。

どうすれば、お兄ちゃんと一緒にいられるの?

どんなに頭を働かせても、出来の悪い脳は一向に答えを出してくれない。

そしてとうとう、タイムリミットが訪れてしまった。

少しずつ小さくなっていくお兄ちゃんの背中。

希望の灯火は消えかかっている。

「待って…待ってよおにーちゃん!!」

必死に声を絞り出してみても、お兄ちゃんが立ち止まる事はない。

無理矢理にでも止めればいいのに、体がいうことを聞いてくれない。

“俺はもう、祐希達とは一緒にいられない”

このセリフが全てを物語っていて、私にはもうどうしようもなかった。

私はついに全てを諦めて、天を仰いだ。

空は私に良く似た、分厚い雲が覆っている。

あの日からずっと、こんな天気だ。

それでも傘を差す気にはなれなくて、雨に打たれ続けている。

そうしないと、心を保てなかった。

忘れてしまえば楽になる記憶も、忘れたくなかった。

苦しくてもいいから、縋っていたかった。

───そうか、私は。

幸せになりたいから、お兄ちゃんと一緒に居たいんだと思っていた。

けれど、それは間違いだった。

幸せじゃなくてもいいから、お兄ちゃんと一緒に居たいんだ。

表裏一体、似ているようでまるで違う意味を待つ言葉。

それが分かってしまったのなら、もう迷いはなかった。

言わずとも駆ける足。

あっという間にその背中を追い越す。

そして私はすぐに体を反転させて、お兄ちゃんの前に立ちはだかった。

お兄ちゃんは目を見開いて立ち止まった。

何一つ変わっていないその姿に、涙と雨の勢いが加速する。

瞳を覗くだけで、あまりにも多くの感情が伝わってくる。

それらは今私が持ち合わせている感情と近しい物ばかりで、血は繋がっていなくてもやっぱり私達は家族なんだな、と実感する。

久しぶりに相対した今、私の姿はお兄ちゃんの目にどう写っているだろうか。

しかしその答えが得られないことはすぐに分かった。

お兄ちゃんの視線は私に向いていない。

地面を見つめているのだ。

それが酷く悲しくて、私は奥歯をグッと噛み締めた。

「どいてくれ…祐希…」

地面に向かって発せられた言葉が私に届くはずもなかった。

それに、お兄ちゃんの前に立った時点で、私の答えはもう決まっていた。



───ごめん、お姉ちゃん、飛鳥。



悔いはない、あるのは決意と今から吐き出す言葉だけだ。

小さく、息を吸った。

「おにーちゃんが戻ってこないなら、祐希がおにーちゃん達の所に行く」

言ってしまった。

もう、元には戻れない。

でも構わない。

私は幸せになりたいんじゃなくて、お兄ちゃんと一緒にいたいんだって気付いたから。

ようやくその視線が私に向けられる。

その表情は、驚きや信じ難いといった感情に塗れていた。

「何、言ってんだよ…」

確かにそう言いたくなるのも分かる。

お兄ちゃんを連れ戻そうとしてきたのに、それが無理と分かった途端、なら自分がそっちに行くだなんて自分勝手も良いところだ。

けれど、私はもう決めたんだ。

「祐希は、おにーちゃんが一緒にいてくれたらそれでいい」

お兄ちゃんの目を見つめる。

私の気持ち全てが余すことなく伝わるように。

真っ白な呼吸が混じり合う。

お兄ちゃんは、身動き一つ取らずに私の目を見つめ返している。

しかし、次の瞬間雲が悲しげに揺らいだ。


───今しかない。


そう思った。

お兄ちゃんの胸元に飛び込む。

懐かしくて、嬉しくて、いつまでもこうしていたかった。

けれど私は、顔を見上げて再度お兄ちゃんを見つめた。


「家族を見捨てても、祐希はおにーちゃんが大好き…だから───」





“祐希を一緒に連れていって?”

────────────────────

小さな身体を寄せる祐希に何を言えばいいのか、まるで分からなかった。

いや、ダメに決まっている。

そんなことは分かりきっているのに、言葉が出てこない。

喉元で言葉が消えて、情けなく口が閉じては開いてを繰り返している。

今俺に出来ることは、加速する鼓動を悟られないことと、これ以上祐希の身体が冷えないように抱き締めることだけだった。

「おにーちゃん…あったかい」

か細い声は、今にも雨音に掻き消されてしまいそうだった。

それでも弱った心を揺さぶられるには充分すぎる言葉だった。

──────────

「おにーちゃんおはよー!!」

「おはよ。朝から元気だな祐希は」

「こら祐希こらぁ!何〇〇に抱きついてんのよ!」

──────────

…きっと、楽しいだろうな。

でも、ダメなんだ。

そんな未来は、望んではいけないし、在ってはいけないんだ。

もし、祐希がいなくなってしまったら残された七瀬と飛鳥はどうなる?

夫だけじゃない、血の繋がった妹にまで裏切られた七瀬は本当の意味で独りになる。

飛鳥だって、祐希がいなくなることは絶対に耐えられないはずだ。

俺がこんなことを言うのも、望むのも間違っているのは分かっている。

だけど、もうこれ以上誰にも悲しい思いをしてほしくない。

涙を流さないでほしいし、傷付けたくない。

元に戻らないからといって、粉々になるまで壊れていいわけじゃないんだ。

だから、俺は…。

 


“なぁ、祐希───”



───地面に崩れ落ちた祐希の肩に手を添えることはしなかった。

これ以上は、俺の心が保たないと思ったから。

罅割れた心にぽっかりと空いた穴は、きっと元には戻らないだろう。

俺は弱いから、きっと思い出してしまう。

それなら、思い出してしまわないように、忘れてしまおう。

俺は少しだけ歩みを進めて、祐希に背を向けた状態で立ち止まった。

この一言を言ってしまえば、もういよいよ元には戻れない。

元からそのつもりで家を出たんだ、迷うことなんか一つもない。

震える心をそっと殻に閉じ込めた。


「祐希…元気でな」

「────っ!!!」 

祐希はきっと、泣いている。

それだけが最期に“義兄”として分かったことだった。

俺は奥歯を噛み締めて、目を瞑った。

暗闇の中は、酷く心地が良かった。

結局のところ、今までの自分を捨てて歩いてみても、身体は軽くなるどころか、重さを増した。

それでも祐希が後を追ってくることはなかった。

そして、俺が歩みを止めることもなかった。

未来永劫、交わることはもうないだろう。

これで良かった。

これしかなかった。

正解じゃなくてもいい。

正解だったとしても“あの人”が泣いているのなら、そんなのはクソくらえだ。

間違いであっても、あなたが笑って過ごせる道を俺は歩むだけだ。

それから島に戻るまでの間、雨が止むことはなかった。

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