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もういちど自然哲学からわたしたちはやりなおす

この日本では2020年ごろから、この地面が球状ではなく、またアウタースペースとしての宇宙も存在していないということが徐々に知られるようになって、それまで「科学」と呼ばれていた学問界の提出する見解が間違っていることがわかって、それがちっとも"科学"なんかではなく、ただの"宗教"でしかなかったことがバレてしまった。とはいえもちろんまだほとんどの人が科学"教"を信じて生きていることは明らかであって、その間違いを発見する糸口を得るチャンスさえなかなか持てないのが現状である。彼らは古臭い思想の中にいる。信じることで満足しているかのように見える。地球が本当は丸くないんじゃないかなんて思いつくことさえできないというだけではない。たとえばある与えられた社会規範のその向こう側やその土壌や続く未来にあるべきものものを見定めようとすること自体が構造的に許されていない。彼らはそれを自ら自分に対して禁じているかのようにさえ見える。そして、しかし日々の謳歌を求め、暗黒の路上を彷徨っている。中世である。彼らは喜んで支配され、喜んで収奪される。ほとんどの人が何も気づかずに死んでいってしまった。

現行の科学(これを科学教とひとまず呼び分けていたい、"科学"に代わる言葉をまだ僕らは持っていないのだ、実に悲しい、この悲しさはおそらく奴隷階級特有のそれなのであろう)を信じることはすっかり古臭くなってしまった。この2024年の今どき、現行の科学の言うことを信じているなんて時代遅れなのだ実際のところ。もうそんな時代は過ぎた。しかし科学教がコペルニクスを起源とするならばキリスト教も仏教ももっと古いが、僕は決して古いからダメだと言っているわけではない。間違っているからダメだと言っているわけでもない。それは宗教なのだから間違っていてもいいのだ。もしすべての宗教が正しければ世界はむちゃくちゃだということになる。つまり宗教は間違っていていいのだ。ただ科学教はもう2024年ではファッショナブルでは無い、というだけである。現行の科学を信じることは、もう時代遅れで古臭い。あれほど華やかだった"科学の時代"はついに終わったのだ。

さて僕としては「自然哲学」という言葉をひとまず公式筋から借用してきて「科学」の代わりに使ってはいる。平面説を土台とした"科学"をするときには、科学史のうえではアリストテレスとかピタゴラスあるいはアナクシマンドロス以前にまで戻らなくてはならないだろうが、その戻った地点を何と呼べるかについてはひとまず現時点で共有可能な言葉は今は「自然哲学」しか無いのではないかと思う。しかしこれも胡散臭さのスーパーマーケットである古代ギリシア起源のものではあり、科学史ではもちろんそこから近代の「自然科学」へと展開してゆき、地面が丸くなったり、あるいはついにくるくる回ったりするようになるのだが、そうなる以前に立ち戻り、人類が約2500年ほど間違ったまま延々と歩き続けた道程からコースチェンジするときには、もう一度「自然哲学」に立ち戻り、また2500年を歩き直す以外にない。つまりアリストテレスの頃から2500年ものあいだ人類は間違え続けてきたんだよと。もういちど自然哲学からわたしたちはやりなおすんだよと。とりあえずそう言っておけばなんかロマンみたいなものを感じてくれる人もいるかもしれないが、とはいえそれは科学教とほとんど同じ手法なので僕はあんまり気には喰わないけれども、それでも"オカズ"にはなるかもしれない。猫の手も借りたい。とりま自然哲学こそ、いま最先端の科学のかたちである。にゃぁ。

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