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太陽のこと:フラットアース自然誌

月に対して太陽はその本体の変化は乏しい。与える光量が変化するのも一年を通してのことであり、それも単に同じ場所に対して距離を変えるだけである。太陽それ自体の光量は(おそらく)月と違って変化しない。しかし太陽が何をするか、という点においては比較的わかりやすいのではないか。つまり地上の、特に生命体に対し、なんらかのエネルギーを与えている。これは植物や虫の活動で特にわかりやすい。仮に月がエネルギーを吸収するものとしたときに、これは対称的に映る。月と太陽は大きさが同じであり、その役目は真逆であるとすることで、やはりワンセットで捉えることができる。

現代フラットアースの論上では、太陽の高度がトピックに上がることが多い。しかしこれはあくまでも太陽が空中のとある一点に固定的に存在しているとした場合のことだ。これは虹と同じで、虹をとある一点に固定的に捉えることが出来ないように、やはり観測者ごとに起こっている現象だとすることもできる。実際に地上から空中での太陽の居場所を捉えたときには、太陽は雲にかなり近い場所にあるが、高高度気球などによる撮影動画では太陽は雲よりさらに高い場所に映っていて、地上からの観察と一致しない。

昼には空は青く、夜が近づくにつれ、つまり太陽が遠くなっていくにつれ、空は暗くなってゆく。天には屋根があるとすれば、これはつまり太陽は屋根をも照らしているということも言える。このとき、昼間の明るさはそもそも屋根が光るための明るさであって、それは屋根の外側にある光源によって上から照らされており、空中の太陽の像はその光源が映り込んでいるものだとする見方もある。これは特に日の出前や日没後の空(あるいは屋根)の明度の様相からも一定の信憑性はあると思う。屋根は内側から照らされているというよりはそれ自体が光っているようには見え、また空中の太陽像が観測者ごとに起こる現象であるという見方と一致しはする。しかし実際のところはもちろんわからない。

日蝕はどうであろう。ストレートに見れば新月がそこに覆いかぶさっているように思えはするが、皆既日蝕ではある場合には一気にその光を減じさせて、急に太陽の像が萎んで見えるようなものも動画にはある。このふたつを同じに扱って良いとは思えない。古代インドの天文学と神話では(天文と神話は社会覇権に対してワンセットで相性が良い)ここにラーフとケートゥという2つの見えない天体(または神々)が考えられていて、それらが太陽や月を食べてしまうことによって日蝕と月蝕が起こるとされている。日蝕と月蝕がこの世界の動作において必要な機能であるとすれば、こういうラーフとケートゥのような"装置"が設えられてあっても変ではない。全くない。

さて、あとは黒点とは何であろうというぐらいではないか。月と違うのは、月の模様が地上から肉眼で見えるものであるのに対して、太陽の模様とも言える黒点は肉眼では見えず、またデザインが毎回違うことである。

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