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コロナとミンナ教と私 ~真実はブサイクでも真実~

コロナが存在していないことにほとんどの人が気がついていない。これはとんでもないことである。もはや見慣れた光景ではあるが、実際にはとんでもないことだ。こんな簡単な話がわからないというのはちょっと尋常ではない。僕がコロナが無い可能性に気がつき、その最終判断を下した(そのとき僕はハラリとマスクを外したのだった)のは2020年の4月の終わりだった。この頃はまだ僕は地球が丸くないことも知らないし、周囲の人たちがコロナが無いことにこのさき延々と4年も、あるいは永遠に気がつかないかもしれないことも知らない。もちろん周囲に「コロナが無い」なんてことを言っている人もいなかったが、ただ自分は少しだけ"早い"のだと考えていた。自分はほんの少しだけ、たまたま目のつけどころが良かったり、偶然に頭がうまく噛み合って良く回ったせいで、少しだけ"早く"コロナが存在していないことがわかったのだと。そう考えていた。でもいずれはほとんどの人がこのことを自然と知ることになるだろうと。自然とこの結論に収斂されるより他にないのだからと。それはとことんまで「時間」の"量"の問題でしかないと考えていた。

だが現実はそうではなかった。人々はいつまでたってもそのことに気がつかなかった。時間がどれだけ過ぎようとも何ひとつ変わらなかった。僕はたいそう戸惑った。それはそれはもう戸惑った。こんなことがあってよいものか。こんなことがあり得るのか。なぜみんなこのことに気がつかないのだ。そんなわけがない。いったい何が起こっているというのか。なぜそんなことになるのだ。いったいどうしてしまったというのだ。そんな日々が延々と続いていく中で(フラットアースを挟みつつ)翌年2021年の5月頃に僕はそれについてひとつの結論を下すことにした。世の中のほとんどの人たちは「ミンナ教」という、"常にみんなが正しい"と考える宗教にどっぷりと漬かりきってしまっていて、完全にアディクトしてキマり倒してしまっているのだと。もはやそれでしかこの状況をうまく説明できる"仮説"は僕には存在していなかった。

実はこのスペクタキュラーな"仮説"を思いついたのはその前月の4月だったが、現実の生活とその思想の中にこの仮説を適用させ反映させて暮らしていくという覚悟を決めるまでに1ヶ月もかかった。覚悟が決まるきっかけはツイッターでフォローしている「剃刀売りのラズィーラ」さんという方のツイートでこんなのがあったからだ。曰く「真実はブサイクでも真実」。まったくその通りだ。完全に正しい。真実はブサイクでも真実だ。当たり前だ。そして世のほとんどの人たちがミンナ教という宗教にズブズブであるというのはめちゃめちゃにブサイクな話だ。そんなブサイクなことがあるもんか。あり得ない。人の知性がそんなふうになっているわけがない。考えられない。というのも僕はそれまで長い間、他者の知性に敬意を払うことは自分の知性に敬意を払うことであると考えてきた。他者の知性を尊重することによって、そのような回路を通すことによってのみ、僕は自分自身の知性を"正しく"守り、そして育むことができるだろうと考えて生きていた。その考え方のシステムがここにきて、ブサイクなミンナ教仮説の台頭によって、そのシステムのサービスが終了になることは当時の僕にとっては耐え難い痛みであった。わけわからん謎宗教にズブズブの知性に敬意を払うことは僕には絶対にできない。あり得ない。到底受け入れられない。僕は僕自身の知性のそれまでの運用システムを捨てなければならない。到底受け入れられない。捨てられない。考えられない。世のほとんどの人が自分では何も考えずにただただみんなが正しいだろうとしか日々思っていないなんてブサイクすぎる。そんなことがあるはずがない。だが「剃刀売りのラズィーラ」さんのひとことで心が決まった。真実はブサイクでも真実。そうだ、まったくその通りだ。世のほとんどの人はミンナ教という宗教にのめり込んで生きている。みんなが正しいと考えてそれに従って生きて死のうとしている。だから自分は特に何も考えなくていいと思っている。まったくその通りだ。正しい。めちゃめちゃにブサイクだ。正しい。

そういうわけで現在僕はこの「ミンナ教"仮説"」を大いに採用して生きている。その後の僕の知性の運用システムがどのようであるかはまだ僕はよくわからない。そんなものはもう無いのかもしれない。ともあれ以前のものは葬り去ってそれで構わなかったのだろうと思う。特に困ってもいない。当たり前だ。もう使い物にならなくなったのだからそれで良かったのだ。あるいは僕が球体派とたくさんのやりとりを試みるのはその名残りかもしれないとも思わなくもない。ともあれフラットアース界隈では「認知不協和」とよく言うが、僕にとっては地球が平らで宇宙が無くて民主主義が嘘っぱちで現行科学がファンタジー満載のゴミ理論だったことなんかよりも、この「ミンナ教仮説」の採用時に最もキツい認知不協和が起こっていたと思う。だから「剃刀売りのラズィーラ」さんのあのツイートが無ければ僕はそのまま社会や周囲に対してうまくピントが合わず、あるいはやんわりと気が狂って暮らしていたかもしれない。わからない。ちなみにそのラズィーラさんの肩書きである「剃刀売り」の”剃刀”とは、「オッカムの剃刀」や「ハンロンの剃刀」で有名な「哲学的思考の剃刀」のことで、氏はそれらの有名定番ロングセラーの剃刀を推し(売り)つつ、「いつかは自分の名を冠した剃刀を作りたい」という熱く深く美しい野心を胸の内に静かに確かに秘めておられるようだが、寝言でしかない。全くの寝言だ。なぜならその剃刀はこの世界にすでに存在していて、その剃刀でしか剃れないムダ毛があり、そしてそれを完璧に剃り上げることができるからだ。真実はブサイクでも真実。一丁いらんかね。ヒュッ。


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