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わからないことを赦せるかフラットアース

フラットアース論はとにかくわからないことが多い。太陽はどんなふうになっているのか、星はいったい何をしているのか、南極のいちばん奥はどうなっているのか、天蓋はほんとうにあるのか。そして、そもそもこの"場"はいったい何なのか(この言い方はツイッターでおおばやしさんが使っていた。場、いい表現だ)、神あるいは造物主はほんとうにいるのか。しかしこの「わからなさ」の実情は、実のところ現行科学で説明されていた部分が一転して途端にわからなくなったことに起因する現象でもあるとも言える。たとえば宇宙の果てがどうなっていて、その先がどのようであるかは、現行科学でも説明は無かった。僕らもそれで特に困りはしていなかったはずだ。なんならクジラがなぜ座礁するかも現行科学はきっぱりと答えられてはいないぐらいだ。だからこの世界についての"わからなさ具合"は、フラットアース以前も以後も総量としてはそこまで変わりがないと言えばない。もちろん太陽とクジラと造物主では重要度が違うと言えば違うので単純比較はできない。とはいえ、以前はわかっていた(つもりだった)はずのことが突然わからなくなるとうろたえてしまう。仕方がない。僕も当初はものすごくうろたえた。

しかしそれでもたとえばビッグバン宇宙の果てがどうなっているのかを夢想する人や、なんとか数学的に解こうとする専門家がいるように、それについてわかろうとする人も一定数いる。まあ専門家は"職業"なので微妙なところだが、一般人におけるそれはとことんまで好奇心と興味の為せる業ではある。とはいえいずれにせよ僕らは天をどこまでも高く自由に移動できないし、南極のいちばん奥まで行けない。もちろんトライしてもいいが、法律とか条約によって身柄を拘束されたり、あるいは攻撃されたりする可能性もある以上、なかなかトライしようという気にならない。金もたくさん要る。そういう事情もあって天体や地の奥のことを"わかる"のは困難だ。僕らにわかる可能性が開かれているのはそれ以外の、つまり身体的自由を奪われたりたくさんのお金を必要としないような、そういうそこそこ日常的に接触が可能な事柄だけである。それに仮に膨大な金額を必要とするような計画が実行出来たとしても、そこで見出した物事や経験の全体をお互いに共有することができないという側面もある。共有することができないならNASAが月に行ったと主張するのと構造それ自体は同じになってしまう。もちろんただ自分がそれを知りたかっただけで、誰かに知らせたいという望みは一切無いというならそれも良いと思うけれども、僕らはそこそこ誰でも日常的に観察可能な範囲内の物事しかほんとうに共有し合えないのは確かだ。要は"科学的"に言えば「追試」が実行できなければならない。追試ができる"可能性に開かれている"というのでは足りない。やはりそれなら月面着陸と同じである。どうしたって実行できなければならないところに限界はある。

いまフラットアース界隈では、この「わからない部分」に関して色んな説や案が乱立していて、特にQアノンだかテレグラムだか何かそういうシステム(?)からの情報であるというかたちで紹介されているタイプのものが思いのほか広まって一定の支持を受けているように映る。それは今に始まったことではないのだが、それでもなんだかいつのまにかすっかりお馴染みの光景になってしまった。どうか自然科学あるいは自然哲学または天文・地学の範囲内のみで伝播が進むと良いとは思ってはいるものの、どうやらそうもいかないようでこのあたりはどうしようもない。実地で観察できないものを外部からの情報に頼るならばそれは現行科学のそれと構造は同じなのである。その慣れ親しんできたサイクルから離脱すること。わからないことを赦せ。"今の私には"わからないんだと諦めよ。その痛みに、苦みに、重みに耐え切れなかった者がいつも泣く。己の軽薄さに泣く。どうせ信じるなら現行科学のほうが威信があってまだ良かろう。自分にしっくりくるという理由ならば趣味的に科学に愛着する者と変わるところはなかろう。わかりたいことがわからないのが気持ち悪くて仕方がないのはわかるが、この世界は誰かひとりの知的気持ち悪さの解消のために姿かたちや仕様構造が変化するようにはできていない。当たり前だが、それも観察してゆけばわかる。いずれ。

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