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身体とユニヴァース

身体を宇宙と見立て、お互いに対応関係にあると見做す考え方は古代だけでなく、現代の東洋医学やインドなどでも見られる。ここでの「宇宙」とはつまりいわゆるユニヴァースという意味での宇宙だ。あるいは天だ。または天と地のシステムそれ自体のことだ。要するに現行の科学体系は「科学」という様式をとってその「天と地のシステム」を書き換えて捏造して代わりに置いた、と言えなくもない。特に宇宙空間に関しては完全な捏造でしかないが、そうすると仮にもしも身体が宇宙と対応関係にあるならば、身体に関する知識や情報もまた捏造されていたとしても別段おかしくはない。現にコロナは無害だし(というか存在しないし)、血液循環説の語り口は球体説や原子論と同じで怪しさ満開である。僕は身体とユニヴァースが対応関係にあると主張したいわけではないが、ユニヴァースの知識と同じで身体の知識もまた隠されている。

ただ単に隠されているだけではない。別のものや別の体系によってそこに代役が立てられてもいる。そしてそこには例によって専門家がいて、それはとても難しいものなので専門の教育や訓練を受けていない一般人は専門家の言うことを聞くのが正しい在り方であると信じられている。もちろんその専門家もまた(例によって科学者と同じで)その専門の教育や訓練を正しいものと信じて疑ってはいない、か、あるいは職業としての性質上それを疑いながらも手を止めることは大変に困難なだけである。ともあれこれによって人々は自らの身体に関して考えることが"不能"になった。多くの人々がコロナについて何も考えておらず、無関心で、ただワクチンの列に並ぶ奴隷のように見えるのはそのためである。これまたちょうど人々が宇宙に関して考えることが不能になっているのと同じ構造ではあるが、彼らにとってはそれで"正しい"のである。彼らは自分はそれについて考える立場や権能や資格や、また意見なり態度なり行動なりを示す権利や能力や正当性は無いと信じているし、それでこの社会ではちゃんと通用する。何も問題がないのだ。

現行科学の示す宇宙観がそうであったように、身体に関する知識や情報もまた、それを個人が経験するよりも先にまず社会によって与えられたものである。これによって自分でそれについて捉え直すという行為はとても難しくなるということは言えると思う。実体験より先に知識を得てしまうこと。しかも身体に関しては「死」あるいは「苦痛」という恐怖もワンセットであるので余計に刷り込みは強かったかもしれない。もちろん「死」が"ナンボのモン"であるかは誰も知らないにも関わらず、恐ろしく忌むべきものや絶対に避けるべき悲しいものであるとされているのもひっかかるといえばひっかかるが、少なくとも「苦痛」に関しての恐怖があるのはもちろん理解も共感もできる。体感もある。だがそれを避けたいと願うあまりに自らの身体を、あるいは他者の身体をも、その外側であれ内側であれ、自分の目や体感でよく観察し観測してゆくことを忘れたのだ。その必要性や有用性を顧みず、その習慣を放棄し、それがいよいよ大事になる時にはもう戻れなくなってしまっている。かつて聞いた恐怖がすぐそこまで迫ってきているのだ。考えることなどできるわけがない。

そもそも現行の西洋医学も現行西洋科学とほとんど同じだけの長さの歴史を持つ(とされている)。現代人体解剖学の創始者であるらしいヴェサリウスによる古典名著『ファブリカ(人体の構造)』の出版年は、ポンコツ地動説の事始であるコペルニクスのすちゃらかエッセイ『天体の回転について』と全く同じ1543年であるというのはしばしば語られることではあるが(ちなみに血液循環説のハーヴェイの著作は1628年)、身体もまたユニヴァースと同じで、いろいろ必死ぶっこいて隠そうとしているものごとのひとつなのではないか。身体とユニヴァースはちょうど皮膚を境目として、そこを物理的な折り返し地点として存在し合っている。そのふたつに対応関係を見出すのはそれはそれで自然のことのようにも思えはするが、僕は今のところその根拠を見出していない。ただ、自分の身体の在処を見失った人間は地面のかたちやうごきや天体と雲の位置関係が見出せない、というような大変地味で局所的な対応関係が少なくとも見出せているだけである。彼らは自分の身体を見る/観る/診るのは医者であって自分ではない、という信憑の中で今日を生きている。

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