小説 鏡のなかで(未完)(2005年)

第一章 ステレオタイプ

もうすぐ雨の降る雲の中に、紫色の、閃光質の火の手が上がり、冬の木の枝みたいに折れ曲がっていくのが見えた。それは色のついた蜘蛛の巣のまがい物みたいだった。俺が、こわくなってそこから逃げ出そうと思ったのはそういうわけで。けれどもいつでも、そういうときに逃げ出していくのはいつでも、自分の、溶けてしまって青白い洗剤にまみれてしまった時間の一部だけだっだ。結局は清潔になって世界のシャツになって世界の泥にまみれ―それからこうしてかき回されてしまう。そういうわけで俺は、いつのまにか物心がついたころの、15年前に住んでいた家の、道路に面した草ぼうぼうの庭の向こうで、汚れた鏡を洗うホースから出てくる水になって、自分の鏡の中にしか自分以外を見つけることができないでいた。

言葉は鏡であり世界は本当は液体でもあり液体に世界の限界からの分節的な反射が起こることで固体化がすでに発生している、と、いわれても意味がわからないかもしれない、だけど話をそらすためにこう考えたっていいんだ、すべての理論は「すでに」ってところが肝心で、見えないところに「すでに」が隠れていやがる。時々はそういうからくりがばかばかしく思ってしまうけれど「すでに」満載の態度で冷笑するのが俺は耐え難く嫌だったんだ。きっと子供のころから。だからこうして他人の笑いを、とろうとしている―そんなことを追求する必要なんて、どこにもなかったのに。

目覚めた毛布の襞から浮き上がってくるひねくれた蜥蜴の乾いた死体―その上で、白い眼球たちが虹色の帯を引きながら仮面舞踏会をして消えていく。「あたしはあなたのせいで三日間なんにも口にしてないの。3日間ヴィデオテープに撮影されたあなたとあたしの関係のにせものを強制的に鑑賞させられて、三日間不安の中で椅子に座って雑誌を読んでたの。だからすごく体重へっちゃった。ダイエットどころじゃなくてね。だからあたしはあなたの首を締め付けて殺すことができたらと思う、ひょろ長くなって天然痘みたいな真っ赤な吹き出物でいっぱいになった自分の首を締め付けて殺すことができたらと思う」と、道路わきの木製の壊れかけたベンチと案内ボードのみで設備されたバス停で会話しているカップルが会話しているのが聞こえた。けれども俺は自分の恋人とはそんなお互いの首を自分の首で締め付けあうミュータントろくろっ首の変種みたいな関係を作りたくはなかったんだ。大事なものはもっと丁寧に傷つけようと思ってた、いつも。透明な血液しか流さない、声の安全剃刀で、言語行為の、言語的行為の、言語的行為と解釈される偶然の、絶対的の、洗面所の片隅に落ちている赤茶けた錆がかすかにこびりついた不完全剃刀で(だけどそいつは結局、どうやって相手を丁寧に苦しめてやろうかっていう自分の感情を彫刻するだけの話だったのかも、しれないな)。

時には相手の精神的な体を四つ裂きにさせる大胆さも必要なのかもしれない。それも一つの丁寧さだから結局矛盾化を引き起こして結局どっちなのかよくわからないけれど(こいつはつまり理論が実践に移されたときにどれほど不確かな手助けにしかならないのかっていう理論の典型的な実践なのかもしれないな)だが確かに俺は相手の精神的な体を八つ裂きにしてやろうかと常日頃思っていることは確かで―ああ、それから・・・あの女はなんていうんだろう?かたえくぼを生み出すあの奇妙な微笑みと一緒に。あの女はそういうんだろうか?「いいの。いくらでもあたしを八つ裂きにしたらいい。そしたらあたしは完全な二重分裂を引き起こして、片方はあなたのなかで永遠の薄汚れた死体アイドルになってあなたの追憶通りに動くステレオタイプの冥土人形になってあげるから。それからもう片方はあなたのいない例えばパリのシャンゼリゼ通りにまで逃げてって、素敵な友達をたくさんつくって冬のセーヌ河が見えるアパートの夕暮れのなかで肘掛け椅子に座ったまま八十年後に醜く老衰死しちゃうから。あたしにこういう空想をさせてくれるあなたのことあたし大好き。あたしのために日記を書いてよ」・・悪い冗談だよ。俺の視線は白塗り鉄の階段を降りて、次の思考に降りてった。

ばばば!という音が頭の数千メートル上で鳴っていた。もうすぐ雷が落ちるんだろうか?雨をよける傘よりも避雷針よりももうすぐ縁の切れそうなあるいは案外長続きするかもしれない相手からの返事のほうが大切になってしまったなんて。俺はまぶたを落として道路沿いの排水溝に捨てられた古雑誌が水を含んで透けまくって枯れた雑草とよくわからない異性愛関係をつくりだしているのを見た。だけどこの奇妙な恋愛もどきはステレオタイプ理論の実践なんじゃない。物理的現実に起こっている事件だった。

高速道路を高速自動車が火を噴いて次々に突っ込んでいくテレビゲームを友達の家で見かけたときの連想が現実のテレビゲームよりもずっと生々しく脳裏を刺激する。ただの幽霊にしか見えない、生きている人間には見ることができない神経細胞の情報伝達滑り台の集団化された投影イメージが道路上を仲良く走ってた。今にもぴゅーと音を立てるような勢いで、漫画にでてくる超能力者の必殺技みたいに。いつでも俺は気がつくと精神だけになってあたりを異化作用させる遊びをさせられてた。人間はみんな、子供の遊びの犠牲者なんだ。人はだれもかれも自分の中に子供を持っているから。(けれども子供の表現方法に、違いがあるのに違いはあるまい)子供たちのせいで回り道をして、人生なんてのは命がけのあそびだってことが分かったら―時にはそういうなにもかもに疲れてしまう。疲れてしまう。疲れきってしまう。いろんな名前に取りつかれてしまって。名前の遺伝子的組み換え作用を引き起こしている世界の偶然エネルギーを取り込んでしまう生命力のばかばかしさに疲れてしまって。きっと俺のからだは中空構造を持った棺おけでしかないんだ。(そしたら「なんでそんなこと言うんだよばか!なんてうそ大好き。だからもうそんなこと知らないよ」なんていう、全身の毛を逆立てた子猫みたいに愛嬌のある声が、声の中にある目つきが俺のことを見つめているのをついつい感じてしまうんだ)

―なんてことをしゃべくりながら棺おけの名前が連想させる名前の集合ネットワークにことごとく無視を決め込んで俺の目は肉体と一緒に自分自身に揺さぶられながら大学裏の、草ぼうぼうのがらがら蛇みたいに曲がりくねった坂道をくだってった。俺はいつでも、待つのが辛いときは歩いていた。あてもなしに歩きながら待っている。そしたら、最低でも自分の体験が挨拶をして、そいつのゆがんだ本質であるみやげ物をぶらさげながらやってくるから、俺はそいつと話をするんだ。

偶然立ち寄った家具屋の二階のソファーに座る―俺は落ち着いて詩を書くことができないんだろうか?俺は落ち着いて愛する女のことを考えることができないんだろうか?(そのほうがどれだけあの子を安心させられたろう?)結局は俺のほうが気が狂っているせいで。・・・こういう時はそういうことを考える。―どうしてみんなステレオタイプが大好きなんだろう。男女関係イメージなり、社会思想イメージなり、就職先イメージなり、無職あらためニートなり・・・俺も含めたみんながマスプロダクションが大好きな高度情報資本主義社会で飼いならされた豚だからなんだろうか?―俺もおまえもみんなこういうステレオタイプな概念把握が大好きな豚野郎で、そうするとヒンズー教徒は豚を食べないから・・・今思ったけどヒンズー教徒の豚が現れたら、そいつらは飢餓状態になったときに共食いに走ることさえできなくなってしまうんだろうか?けれども一応弁解しておくと、豚はそんなに悪いものでもないんだぜ。豚肉はうまいし、健康に役立つし、なによりも豚っていう生き物は嫌な声をだして鳴いてくれるし、嫌な臭いを出してくれることで俺たちに豚でない生き方の大切さを教えてくれるんだから。すでに超宇宙的超高度情報資本主義的超高度情報資本主義的嘘資本主義的経済体系に飼いならされてる、飼いならされてる、豚どもである俺たちのために。

ーなんていうのは吐き気がするほどステレオタイプな思考方法だけどさ。豚くさい文章のせいで気を悪くしたらごめんねだ。悪かったね。けれどもそっちの気持ちを確かめる前にこっちのほうが気味悪くなっちまって。ここから抜け出すことができたらよかったのになって思うよ。・・・そしたらいつのまにかそこを抜け出して、俺はほとんど自我喪失状態に陥りながら3年前にフローリング張りの床に胡坐をかいてケンウッド製の壊れかけたCDコンポのジョグダイヤルを回してた。海の見える草原の工場で大量生産されていくCD音質はこの現実のなまなましくて弱弱しくてか細い微音を、それから微温を消し去っていくから、俺はどっちかっていうとライブ録音のほうが好きだったんだ―部屋のなかでソニックユースをかけていたら彼女はいきなり叫び声を上げて倒れそれから2分後にけろりとして言った「心配しないで。もう眠くなってきたから夢を見てたの。今日はいい天気だから、今から外にでたらいい。前の彼氏とやったみたいに、河沿いを歩きたいから。河原をうろうろしながらこのメロディーに合わせてバレリーナのまねをして踊りながら歩くの。見張っててね。角からいきなりやってくる車にあたしが轢かれてしまわないように。車が来ても、面倒になったからってわざと見逃すなんて真似は、しないで。」冗談。こんなことを考えているうちは彼女のことをテーマにして名曲を作ることができないんだろうか?次々に名詞という名詞が曲がっていく。高速道路で次々に視線を追い抜いていく白い自動車の群れみたいに。手を振っても挨拶もなしでさ。俺は監視してるんだろうか?―それともとっくに見逃してしまったんだろうか?そしたらこの文章をPCに打っている俺のむこうで今度選択ばさみでもつけておこうかとだれかが言ってるのが聴こえた。平井くんがいってた―そういう風に聴こえたんだ。

世界は醜くて馬鹿馬鹿しくて偉そうな顔をしている言葉ばかりで構成されていると考える俺は世界の美しさときまじめさと卑屈さと卑屈な人間だけがごくたまにだけ持つことができるような勇気を一人占めにしてすさみきった典型的なすさみきったごみのようにすさみきったくだらない典型的なくそつまらない日本の郊外の街を歩いていた。昨日俺は大好きな女に胸の焼け付くような思いでさよならのメールをしたと思ったら今頃になってあいつは朝方電話をかけてきやがったから、何かもう自分でも何がなんだかわからないままあの女の大好きなシチュエーションである女に翻弄される男である自分を強制的に演じさせられていることで愛する女に無意味な(ああでもどうせ無意味に決まってるんだとか考えながら、それでも意味を要求していやがる、やってられない!)サービスをしているんだろうかと考えながらとりあえず歩いていた。「暇なときはね、いつも近所の切符を買って上野まで行くの。東京に行かないときは・・・宇都宮駅近くの河原を歩いてる。河の上を流れてる水面の波を見ているとなにもかもどうでもよくなるんだ。だけどこんなことを言わなくてもいいのかな。あなたはなんでも分かってるから。」

そんなの知るかよ!いつだって俺はそうだった。いつだって困ったときは歩いていた。そしたら自分の脳細胞が活性化していくんだ。そしたら俺は詩やメロディーやこれからするべきアイデアを思いつくか、すくなくともそこにリズムが生まれることで俺は自分の混沌に秩序を与えることができるようになる。カオス発生運動とリズム構成運動がせめぎあいを起こして、結局は俺の時空を安定化させることになる。軋轢のなかで。孔子もアリストテレスも中庸を奨励した。中庸は凡庸とは違うんだって俺は思考してた。彼女と出会ってアメリカに行く二年くらい前に。

俺はとりあえず家から少し離れた大きな本屋に向かっていた。国道沿いに立っている、安っぽいと形容するしかないような代物。すごく近くにあるはずなのに見慣れない道だったから何度も道を間違えてしまった。俺は三輪明宏の声を断片的に脳内で再生させながら歩いていた。「暗い日曜日」が本当に悲しそうに大袈裟に流れ出してきた。癪にさわった俺は脳内嘘アイチューンもどきのつまみをひっぱりだして嘘ジョグダイヤルを嘘フローリング造りの嘘床の上で回しだした。そしたら浅川マキが流れ出すんだ。

「本当じゃないってなんになるの?どうせあの人のところにもどるわ。」

本当じゃないなんてなんになるんだ!俺は毎日そう思ってた。俺は現実逃避をしてるんじゃないのさ。これは現実でもあるんだ。現実も空想も手垢のついたヴァーチャルリアリティー言説の持つリアリティーも関係ない。俺は誇大妄想に取り付かれているんじゃない。俺は何もかも見ようとしていたんだ。そしてだれでもわかるんだ。結局はだれでも自分を正当化してて、しかもだからといって自分の中途半端な反正当化をやめることができないんだろうってことくらいは。・・・俺は現実の狂人性を定義する尺度をなくしてしまった現実の中で、多分自分の彼女が離れていくのが怖いだけなのに違いはないんだろう。まだ嫌われたほうがましなくらいなんだ!俺は彼女の言葉を偽造する。粗製濫造する。自分の無意識を観察するために。彼女と戦い続けるために。こいつはそのための正当化運動と反正当化運動のせめぎあいの典型例なんだ。典型例はステレオタイプだな。カオスとリズムのせめぎあいみたいに。―そうすることで俺はステレオタイプの、ステレオタイプって名詞周縁ネットワークを活性化させる異化作用を話し合っているのさ。

(2005年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?