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1987年の「GOOD-BYE青春」。

昨年11月までオンエアされていた朝ドラ「エール」。

ボクは二階堂ふみ目当てで毎日観ていたのだけど、福島を舞台にするシーンも多く、久々に毎日福島弁の、あの独特のイントネーションに触れた。
そしてボクの遠い日の記憶が蘇ることになる。

ボクは小6から中1にかけて福島県福島市、中2から高校卒業までを福島県郡山で過ごした。鈴木英人のイラスト目当てで「FM station」を買ったりしていたけど、民放FMが1局もない、輸入盤屋としてWAVEはあったけど、マニアックかつ先鋭的な商品は1枚も置いてなかったエリアだった。ロッキンオン・ジャパンに連載されていた江口寿史さんの「THIS IS ROCK!」を読み、トッド・テイラーを探してWAVEに行っても置いてなかった。ブライアン・ウィルソンは新星堂に1枚だけ入ってきたものを買えた。うん、あれは奇跡だったな。

つまり当時のボクはカルチャー耳年増状態。肥大化する知識が先行ってやつはかなりつらい。「FM station」を読み、番組表を凝視しながら「このアーティストのこの曲はどんな曲なのか」と妄想する日々。とにかくオールナイトニッポンのOAは1部のみで終了エリアである。「夕焼けニャンニャン」の放送開始は1986年の2月からで、いきなり河合その子となかじは卒業、とんねるずの「トライアングルブルー」なる深夜ドラマは放送されることもなく、「冗談画報」は一度も観たことがない。情報だけはあるのですべて想像、妄想。おまけに通ってる高校は男子校。そりゃあ、トット・テイラーとトッド・ラングレンの区別もつかなくなる(全然違う)。


「ひのまる劇場」の白智探偵事務所のような部屋に住みたかった。レコードにかこまれて寝ぼけながら散乱するレコードをジャケットにしまい込みたかった。
だが、自分が過ごす自室は畳部屋の6畳一間、おまけに来訪する友人は長渕剛とブライアン・アダムスをこよなく愛する鈴木くんである。ボクと同じ苗字でややこしいけど仕方がない。高校時代より愛煙家だった彼はラーク・マイルドを好み、マウンテン・デューのペットボトル片手にボクの部屋をよく訪れた。

鈴木くんは「君もね、軟弱な音楽ばかり聴いてないで長渕を聞いたほうがいいんだよね」(福島弁)と自分で編集した長渕ベストをカセットテープで日々推しつけてくる男だった。愛読書は「君はギターの弦を切ったことがあるか」であり、いつも「恋人時代」という長渕剛の曲を口笛で拭きながら自転車で登校して、休み時間はウォークマンで自作長渕ベストに聞き入り、浸り、他者を受けつけない、そんな男だった。

それでも彼は中学の頃からドラムをやっており、バンドブーム直前の時代ということもあり、校内バンドの誘いはいつもあり、そして必ず「ドラムはもう叩かない。ギターの弾き語りならやるけど」とすべてのオファーを断っていた。そう、彼は長渕剛と同化しようとしていたのだ。

ちょうど時期的にいえば「STAY DREAM」というアルバムがリリースされた。前年までのいわゆるロック路線なバンドサウンドを捨て去り、アコースティック、それも叙情派フォークではなく、シリアスかつ重めな路線のヘヴィなアルバムだった。鈴木くんは「このアルバムは剛の魂の叫びなんだよね」(福島弁)と大滝詠一や杉真理、佐野元春ばかりを聴いていたボクを長渕色に洗脳しようとしたのだった。ボクの家に遊びにくるたびに「ロングバケーションなんて虚構の世界だあ。薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべるなんて意味不明だあ。佐野のSOMEDAYは許すけど、おめえにはもっとアーティストの魂の叫びを理解してもらいたいんだよね」(福島弁)と週に何回かは長渕剛のアルバムがボクの部屋で爆音で鳴る日々が続いた。

鈴木くんにとって、長渕は神だった。ときおり叙情派時代の曲を流し、「この頃の剛もさ、俺にとっては剛なんだよね」(福島弁)とボクの部屋で膝を抱えた。彼はおニャン子では高井麻巳子推しだった。「秋元康はさ、芯はロック好きだと思うんだよね。だからとんねるずもおニャン子も俺は認めなければいけないんだよね」(福島弁)と寂しそうに笑った。もちろん彼にとっての優先順位は長渕であることは揺るがないのだ。今となっては意外だが、秋元康は作詞家としても、放送作家(ラジオレギュラーの構成を担当していたらしい)としてもがっつり組んでいた時期があるのだ。「さらば、メルセデス」という秋元康の自伝小説がある。ここに長渕が少しだけ登場する。放送作家として、駆け出しの作詞家として日々めまぐるしく動き回る中で、煮詰まって自宅にひきこもる秋元。そこに長渕が呑みの誘いで電話するも、秋元は「そんな気分じゃない」と断るシーン。そして長渕は答える。
「でもなにかあったら電話してこいよ」。
うわ、いいやつじゃないですか。ドラマ「家族ゲーム」に出演していた頃のキャラが脳裏をよぎる。ボクは後年、西荻窪かどこかの古本屋で手に入れて読んだとき、素直にそう感じた。思うに鈴木くんはこの男気に惚れたんじゃないだろうか。


彼が編集するカセットテープによく選曲されていた「ひざまくら」、「二人歩記」、「夏の恋人」というセンチメンタルなメロディで綴られる楽曲は後年の長渕剛のイメージとは程遠い。実は鈴木くんは叙情派フォーク少年なのではないかという疑念を持ち始めたのはこの頃だ。「俺、この曲の歌詞みたいな恋愛したいんだよね」(福島弁)。その曲とは「ひざまくら」という曲だった。1979年11月にリリースされた「逆流」というアルバムに収録されていたらしい。そう、あの「順子」も収録されているあのアルバムだ。


1987年になり、クラス替えもあって鈴木くんとは疎遠になった。同時にボクの部屋で長渕が鳴ることもなくなった。この年、「きまぐれオレンジロード」の連載が終わり、ボクは少年ジャンプを買うことをやめた。その代わりにロッキンオンや宝島を購読するようになった。翌年、高井麻巳子は結婚し引退した。「とんぼ」がリリースされたのもこの年だった。そして強烈なオリジナリティというか、ロックでもフォークでもない、もはや「長渕」というジャンル以外の何者でもない存在へと昇華していった。もちろん、ボクはあくまで傍観者として眺めていただけだ。

もう10年以上前になるだろうか。「風」、「空」なるベスト盤が発売になった頃、当時ボクが編集長を務めていたフリーペーパー編集部にその見本盤が送られてきた。そしてその年の横浜スタジアムでのライブへの招待状も。ちょうど「静かなるアフガン」なる曲がリリースされた年。ボクは興味本位で横浜スタジアムに向かった。

スタジアムの周りにはおそらく全国各地から集ったであろう、長渕フリークがアコギ片手に思い思いの長渕ナンバーを披露していた。中には肩を組み合唱する連中もいた。驚いたのは球場内のいたるところに「ギター置き場」があったことだ。いつもは傘置き場として使用されてるのだろう。それが全部アコースティック・ギターを、まるで傘を格納するか如く、皆、迷うことなく使用していた。ちなみにこの日の天気は曇りのち雨。予報通り、その日のライブは途中から豪雨に見舞われた。

ライブは4時間以上あったらしい。ボクはさすがに前半戦で力尽き、空腹に耐えかねていたこともあり、「とんぼ」演奏中に途中離脱、中華街へ向かった。帰り道、気になって横浜スタジアムを通るとフリークたちは豪雨の中、びしょ濡れになりながら合唱、いや絶唱していた。全員が「とんぼ」を、「ろくなもんじゃねえ」など、コワモテ期の長渕ナンバーを思い思いに。もしかするとあの日のお客さんの中に「鈴木くん」は居たのかもしれないなと思った。もし君があの日あの場所に居たら、やっぱり「ひざまくら」を歌ってたんじゃないかな。そんな気がするよ。「二人歩記」とかさ、あえてしんみりキメたかったんじゃないかな。

結局、ドラマーだった鈴木くんがアコギ弾き語りを披露する機会はないままボクらは高校卒業を迎えた。今でも「恋人時代」を口ずさんでいるのだろうか。ねえ、鈴木くん。ギターは弾けるようになったかい?
Gmはカポスタット使うと便利だよ。

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