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きまぐれオレンジロードに捧ぐ。その2

その1でも書きましたが、80年代の週刊少年ジャンプで長期連載を果たすことはとんでもない偉業だった(今でもそうですね)。例えば君がバンドマンだったとしよう。フルキャパ100強のライブハウスで動員20〜30から始めて、運が良ければ1年ぐらいで卒業、次はキャパ300、600、800、、、そして1000ぐらいのハコでやれるようになったとする。ここまでで2年、いや3年かかっても凄い話だ。さらにメジャーデビューの話も舞い込んできてリリースツアーは東名阪Zeppだ、そこをクリアすれば下手すりゃ武道館、、、ここまででむちゃくちゃ運が良くて3年、かかっても5年。お気づきのようにそれでアリーナ、ドームクラスは見えてこない。シリーズ累計2000万部かつワールドワイドに受け入られたこの作品は間違いなくドームクラスのアーティストへとブレイクスルーした作品であり、ジャンプ史上でもここまでのヒットにつながったのは「ラブコメ」枠では初の快挙だった。これは当時の西村編集長も「まんが編集術」の中で認めている。

当時のジャンプ編集部に関しては3代目編集長、西村繁男さん(故人)が残した「さらば我が青春の少年ジャンプ」と「まんが編集術」を読めばよくわかる。特に前著に比べ語られることの少ない「まんが編集術」はより本音で語られているので必読だ。この著書で西村は「オレンジロード」について以下のような発言をしている。「あれはピープ漫画。企画を通す時に騙されたんだよ。ヒットしたけどね」。いわゆる主人公がエスパーだったりといった設定は連載を通すための手段だったのではないかと。確かに西村編集長には傾向としてSFへの肩入れはあった。寺沢武一の「コブラ」然り、諸星大二郎や星野之宣、岸大武郎への偏向、および連載起用などを考えればそういう手段でもって、意地でも連載企画を通すというのは断じてアリだとは思うわけです。そしてのちにSF作家の平井和正が「オレンジロード」に触発されて「ボヘミアン・ガラス・ストリート」なる小説を上梓したことを思えば十分その手段は有効だったと思うわけです。

話を少々戻します。西村繁男さんの(「まんが編集術」での)発言を考えれば、当時のジャンプでラブコメ的作品の企画を成立させるのはどれほど至難の技だったのか。たとえば「キックオフ」(ちば拓)に関しては「ラブコメをおちょくるための」連載だったと西村は語っている。おちょくるための「キックオフ」全10巻。ちなみにちばはこの後、「ショーリ!」(野球マンガで全2巻)、マラソンマンガ「虹のランナー」を手がけたのち静かにジャンプから姿を消す(晩年は似顔絵などを描くイラストレーターに転身していた)。

「オレンジロード」に先行する同ジャンルの作品としては「ウイングマン」(桂正和)がある。鳥嶋和彦さんが鳥山明に続いて担当した桂正和はこの作品のスマッシュヒット以後、「電影少女」のヒットまで短期連載が続く。だが、桂の作品はあくまでエッセンスとしてのラブコメという認識はふまえなければならないだろう。ちなみに鳥嶋さん自身は体育会系だった西村体制のジャンプに馴染めなかったことは「さらば我が青春の少年ジャンプ」でも語られている。

その鳥嶋さんの直系にあたるのが高橋俊昌さんだろう。鳥嶋さんが編集長についたのちの編集長であり、冨樫義博の「幽遊白書」をブレイクさせたこの男。冨樫のジャンプ初連載「てんで性悪キューピット」はアニメになるほどの人気連載ではなかったが「オレンジロード」連載終了後の空席を埋めたのはこの作品であり、実際テイストはよく似ている。「オレンジロード」のヒットのノウハウは冨樫義博へ注がれたのだと思います。「てんで〜」にバトルもの+成長、仲間、というエッセンスが加わり「幽遊白書」はジャンプの代表的作品となり今も断続的に続く「HUNTER HUNTER」までヒットは続いていく。

では肝心のまつもと先生は「オレンジロード」以後、どうしてたのか。

まず連載終了後、単発の読み切りをジャンプ系列誌(たしかフレッシュジャンプ)に描いている。「ハートオブサタディナイト」という香港を舞台にした、「インディージョーンズ」とかあの辺の80年代スピルバーグ+ラブコメな力作短編(短編集「ぐらふてぃ」収録)だった。この作品を経て、唐突に始まったのがスーパージャンプでの「せさみストリート」だ。本誌ではなく、まだ創刊されたばかりのスーパージャンプ。下町の八百屋を舞台にしたラブコメでオレンジロードで展開した、ほのかな三角関係もの路線は引き継ぎつつの作品。スーパージャンプは当時「キャプテン翼」や車田正美作品を担当していた鈴木晴彦が担当していたはず。これは同じくジャンプ本誌から移籍した巻起功士の「連載終了!」を読むと明らか。「さらば我が青春の少年ジャンプ」によると西村繁男さんはかなり深く関与していた「スーパージャンプ」。ヤングジャンプがすでに少年ジャンプとは別ラインの個性で世に受け入れられていることから、「正統な流れ」でのジャンプの兄貴的雑誌を、という狙いだったこの雑誌はグラビア戦略もなく、「マーダーライセンス牙」(平松伸二)や「ふんどし刑事ケンちゃんチャコちゃん」(徳弘正也)といったジャンプ本誌からはみ出し気味な才能たちの受け入れ場として機能させたかったのだろう。小学館におけるサンデー〜スピリッツ〜ビッグコミックのような。

僕はまつもとの青年誌フィールドへの移籍はごく自然だと思った。なぜなら「オレンジロード」のメイン読者たち(これは筆者も含む)はジャンプから青年誌へと移行していた時期であり、実際僕もビックコミックスピリッツやモーニングを愛読するようになっていった。これは僕の憶測でしかないのだけど、ジャンプ離れ出来なくなった世代というのはおそらく「オレンジロード」以降なのではないかなと。いわゆる600万部という驚異的数字を成し遂げた時期の読者たち。「ドラゴンボール」や「スラムダンク」に「幽遊白書」他(ここはあげるとキリがないので)いわゆる長期連載ものの大ヒットが続いていた作品がひしめき合っていたジャンプの読者たち。75年生まれ以降の読者にしてみれば「オレンジロード」はアニメの再放送で知りましたって方々がいてもおかしくはないし、ラブコメブームってなんすか?と言われても仕方ない。さらに言えば「え?ジャンプといえば女の子キャラじゃないすか。「いちご100%」とか普通に載ってたじゃないすか」はい、これも正解。だけど、80年代はまだ端境期。70年代末期、本宮(ひろ志)マガジンと揶揄されていた時期のジャンプは熱血(時に人情)ストーリー路線。これを継承しようとしていたのが西村繁男→後藤→堀江信彦ライン。熱血路線とは違う、もっと10代読者マーケットに寄った形でと動いていたのが鳥嶋→高橋ラインだったのかなと思う。他誌において、当時このラインを最も意識的に動いたいたのが少年サンデーチームだった。すでにマーケットとして確立されようとしていたアニメファン層でも通用するキャラクターを描ける作家を念頭に発掘育成をしてたんじゃないかと思うのだ。

本宮ライン、つまり本宮ひろ志を始めとするアシスタント筋にあたる作家たちというのは、当時の僕らの世代からすると(のちのち読むと破天荒なところも含め面白い)あまりピンとこなかった。「ばくだん」は読み飛ばしてたし、「天地を翔ける」も「赤龍王」も週刊ペースで読むにはあまりにつらい作品だった(しつこいが単行本でまとめて読むと面白い)。宮下あきらはギャグをうまく取り入れていたことで「男塾」の長期連載に辿り着いたが、「ボギーTHE GREAT」等、短命打ち切りの憂き目にあうこともあったし、金井たつおは「いずみちゃんグラフティ」以降はサンデー、月刊少年ジャンプ、ヤングジャンプと執筆舞台を変え、高橋よしひろも「銀牙」で「白い戦士ヤマト」を大きく超える、開き直りの犬格闘路線に活路を見出せてなければ今も続く「銀牙」サーガシリーズを長々と描き続けることも出来なかったはずだ。アシスタントではなかったが車田正美が自身にとっての「男一匹ガキ大将」(本宮のジャンプデビュー作にして初ヒット作)への壮大なオマージュとして連載を始めた「男坂」の短命打ち切りはまさに当時を物語っている(実際内容がストイックすぎてあまり面白く読めた記憶がなかった)。その反動だろう。次作は「聖闘士星矢」。「リングにかけろ」の旨味をさらに濃縮還元、マジョリティに向かって耐性強度も申し分なしのこの作品はヒットした。本宮もラブコメも関係ねえ、と言わんばかりのザッツ・車田ワールド。うちの弟が好きでした(昭和50年生まれ)。

まあ僕の憶測も入ってるのでアレですが、ざっくり言うとそんな大きな派閥というか流れが2つあって拮抗している時代の少年ジャンプって、雑誌としての妙なエネルギーがあって、それゆえに部数をぐんぐんと伸ばしていったんだと思うのです。どっちが正しくて、どっちが間違ってるってことではなく。そして、この拮抗する流れの中で苦戦していたのは前作のヒットを乗り越えられない作家たちだったと思うのです。ゆでたまごは「ゆうれい小僧がやってきた!」、「SCRAP三太夫」、「蹴闘手マモル」の3作連続短命連載に終わり、90年代末期「キン肉マン2世」で集英社に返り咲くまで講談社や角川で「グルマンくん」等の連載で粛々と活動、高橋陽一も「翔の伝説」(テニス)、「エース!」(野球)、「CHIBI」(ボクシング)と3作連続不発弾を繰り出しましたが、「ワールドユース」という視点と国を挙げてのサッカーブームが彼の追い風となったのでしょう。葵新伍(青い信号)、またの呼び名をプリンチペ・デル・ソーレ(太陽王子)。大空翼に憧れるサッカー少年という新しいキャラクター設定による「キャプテン翼」ワールドユース編は高橋陽一復活の作品でした。つまりサッカー漫画というジャンルにおいての水島新司化。これ以降、ジャンプ他誌でもサッカー漫画を描くようになります。つまり水島新司が「大甲子園」で自らの野球マンガの総決算としてほぼすべての(野球マンガ限定)キャラを網羅し、以降は延々と続く「ドカベン」「野球狂の詩」「あぶさん」を描いたかのごとく、「キャプテン翼」は90年代中盤にジャンプ本誌に返り咲きました。以降、ヤングジャンプ掲載を経てグランドジャンプ、キャプテン翼マガジンとフィールドを変え、「ボールはともだち」理論を実行し続けているわけです。

ジャンプとして、まつもと先生を盛り立てる動きも少なかったのだろうか。他出版社で幾つかの連載を経て集英社に復帰したゆでたまごや高橋陽一のようになった可能性は十分あったのに。そのきっかけめいたことは週刊プレイボーイにフルデジタルコミックという体裁で「オレンジロード」の単発スピンオフ(しかもオールカラー)が掲載されたりはあったものの継続的な動きにはいたらなかった。この辺の事情はおそらくまつもとを長らく蝕んでいた病気は大きかったのだと思います。そしてデビュー以来、「きまぐれオレンジロード」を二人三脚で引っ張っていった高橋俊昌さんの早すぎる逝去も

それでも自身のHPでブログの発信ぶりでまつもと先生は継続的に自身の作品を描き続ける意志はあらわしていた。元講談社でマガジンを盛り立てた内田勝に闘病記の原稿を読んでもらったりと作品を描き続ける熱意は失っていなかった。僕がお会いしたときもその熱意が続いていることは伺えた。ちょうど時期的にモバイル系がコミック配信に力を入れ始めた時代でもありました。お話中もまつもと先生の携帯(iphoneでした)にはメールや電話が入ってきており

「いろんなところからデジタルで配信したいってオファー、多いんですよ」

まつもと先生は照れくさそうに仰られていた。

ちなみにここで「せさみストリート」について考えてみたい。連載も隔週誌、しかも毎回掲載されることもなかったため、大判単行本が発刊された際にまとめ読みすることが多かった作品だったのだが、嫌いじゃない。嫌いじゃない、嫌いなわけがないんですけど、、、東京は下町、ごま通り商店街にある八百屋「不二家」、そこの長男だった(故人)飴丸の未亡人、千歳さん、と主人公で次男の圭樹の話が中心なんだけど大学受験に失敗し予備校生になるくだり、旦那をなくした未亡人ヒロイン千歳さんは高橋留美子の「めぞん一刻」や原秀則の「冬物語」のテイストだろうし、下宿人の女の子(たしか知世子というキャラだった)は髪型は違えども桧山ひかる的ポジションだったのかもしれない。だけどこのトライアングルはラブストーリーには発展しなかった。徐々に千歳さんの影が薄くなり、どちらかといけば圭樹と知世子のラブストーリーに、、、というタイミングで話は終わった。まつもとのジャンプ系列誌での連載はこの後も続くが、継続性ということでは結局最後の連載となってしまったのが悔やまれる。実質的最終回となった廃館寸前の映画館を舞台にした話はしみじみしていてとてもよかったのに。おそらくあと単行本にして2冊ぐらい続いていれば作品としてもちゃんと終われたのではないかと。まあこれは僕の個人的見解でしかないのでなんともだが。

「せさみ〜」の頃から準備されていたのかは不明だが、まつもと先生は90年代にCOMIC-ONなるデジタルコミックメディアを立ち上げる。「きまぐれオレンジロードに捧ぐその3」ではアニメ「きまぐれオレンジロード」、そしてデジタルコミック誌COMIC ONについて書いていこうと思います(予定)。


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