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私的KAN論(仮)第6章 小田和正という巨人〜Still Crazy After All These Years

僕は80〜90年代初頭はのちに「J-POP」と呼ばれる音楽の黎明期だと捉えてます。シティ・ミュージック(ポップ)、フォーク、歌謡曲、そしてライブハウスシーンで蠢く無数のバンドたち。それらが奏でる音楽が紆余曲折を経て、大きなうねりとなり一般層にも届くカルチャーとして拡大していったのだと思います。


J-POPを巨大産業へ仕立て上げた要因のひとつにタイアップ戦略があります。フジテレビの毎週月曜日21時の枠が月9と呼ばれ始めたのもJ-POPというワードが一般的に浸透し始めた頃ではないでしょうか。幾多の国民的人気を博したドラマとその主題歌がチャートの上位を占めるようになった時代です。80年代終盤から90年代初頭にはトレンディ・ドラマとも呼ばれてましたがそのルーツとも言える1986年から1987年にかけて2つのシリーズが制作されたドラマ「男女7人夏物語」(2シーズン目は秋物語)を振り返ってみたいと思います。明石屋さんまと大竹しのぶが結婚するきっかけともなったこの作品は元祖トレンディドラマとも言われています。シーズン1〜2ともにシャカタクによるフュージョン・ミュージックが流れ当時の東京(川崎)の光景を彩ります。そして主題歌は石井明美による「CHA-CHA-CHA」、森川由香里「SHOW ME」は流行の最先端だったユーロビートの日本語カヴァー。ここまでは誰もが知るところですけど、今回この章を書くために見直したのですが劇中にKANの楽曲が流れるんですよね。それも「ALL I KNOW」です。1987年にリリースされた「NO-NO YESMAN」収録の1曲です。のちの「REGRETS」や「ときどき雲と話をしよう」を彷彿とさせるハートウォームなミディアム・ポップなのですが、リアルタイムではまったく気づかなかったし、ドラマのWikipediaにも記載されてません。ただ今回見直し作業で耳にしたとき「なるほど」と納得したんですよね。このドラマ、劇中に「夏物語」の頃からネクストニューカマー的なアーティストの楽曲をさらりと流すのですよ。シーズン2に関していえばシーン的にはさんま、鶴太郎、山下真司の3バカトリオが鶴太郎の部屋であーだこーだとぐだぐだするシーン。男3人集まれば生産性ある話をするわけがない見本のようなシーンにあえて流れるんですよね。久保田利伸もそのひとりですし、稲垣潤一もヒット曲ではなくアルバム収録曲、村田和人も1986年リリースのアルバム「Showdown」の1曲目「JUST A LITTLE LOVE」ですよ。おそらくスタッフの中に当時のジャパニーズ・ポップ好きがいたんでしょう。KANの曲が高視聴率だった当時の人気ドラマの中で流れてたとはこの時期から高感度アンテナを張り巡らしてたスタッフの耳には届いてた証拠とも言えます。ちなみにですが昨夜見直してた「秋物語」9話目で流れてた曲、あれは誰か知りませんか?


この当時のドラマ発のヒット曲という意味ではTBS「金曜日の妻たちへ」で起用された小林明子「恋に落ちて」でしょうね。カレン・カーペンターを想起させる歌声とメロディはドラマの切ない恋愛模様と絡み合いヒットにつながりました。スマッシュヒットですが同じくTBSの「予備校ブギ」主題歌「恋とマシンガン」なんてのもありました。やはりドラマのTBSと言われるだけあってフックアップのセンスが絶妙なんですよ。思えばサザンオールスターズがサウンドトラック的に物語のほぼ全編に渡って流された(起用された)「不揃いの林檎たち」もTBSでした。


フジテレビもW浅野主演の「抱きしめたい」にて劇伴をピチカートファイヴ、主題歌をカルロス・トシキ&オメガトライブ「アクアマリンのままでいて」でトレンディ路線をひた走ってましたし紫門ふみ原作「同・級・生」でZIGGY「GROLIA」を抜擢などいい具合のタイミングでアンダーグラウンドからオーバーグラウンドへと引き上げる巧さはすでにありました。そして先に大きく歴史を動かしたのはフジテレビの方でした。




あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら

僕らはいつまでも 見知らぬ2人のまま



(ラブストーリーは突然に/小田和正)


小田和正「ラブストーリーは突然に」は200万枚を超えるヒットとなりある意味90年代の平成J-POPの雛形のような1曲として今も多くのリスナーを魅了するナンバーです。1度耳についたら離れない印象的すぎるイントロ、ストリングスが多様された流麗かつゴージャスなサウンドと(歌えるかは別として)つい口づさんでしまいたくなるキャッチーなメロディ。そして着目すべきは歌詞だろう。どこだとは具体的には歌われてないが「あの日あの時あの場所で」と誰もの心の隙間に入り込めるイマジネーションを喚起させるワードと物語性こそ、ヒットにつながった要因だ。そしてこの点はKANの「愛は勝つ」にも共通すると思いませんか。「あの日あの時あの場所で」と歌われるワードに誰もが自分の物語を投影できましたし、同じように「心配ないからね 君の勇気が」の「君」にさまざまな物語が投影できたからこそのミリオンヒットだったのではないでしょうか。


CDというフォーマットが誕生し、CDシングルという45回転のレコード盤とは異なる商品が受け入れられるようになったことで、そのお手軽感が商品としての大きな魅力だったことは今さら僕が語るまでもないことですが、それにしてもJ-POPがこれほど「売れる」コンテンツになると誰が想像したでしょう。年末になるとユーミンのアルバムが売れる、とか夏になったらタツロー、大滝詠一だなんて雰囲気商戦はたしかに存在していました。ただし、マーケット的には拡大路線は間違いなく90年代に生まれたものだと思ってます。100万売れたら200万、いやいやGLAYのベストは400万枚、だったらB'zは500万枚を目指す、、なんて70〜80年代には考えられなかったことです。とにかく諸説あるかとは思いますが、いわゆるCDビジネスが巨大産業へと移行していく大きなきっかけに繋がったのが小田和正の「ラブストーリーは突然に」だと思うのです。


小田和正はバンド活動と並行していた1986年にすでに「K.ODA」なるソロアルバムを発表しています。1984年の活動再開以降、海外でも通用する日本のポップスのあるべき姿を当時は模索していたように思えます。全編英語によるセルフカヴァーアルバム「Back Streets Of Tokyo」をリリースしたのもそういうことだったのではないでしょうか。


そもそもオフコースは1982年の年末に活動を停止をしていました。オリジナルメンバー鈴木康博の脱退によりバンドとしての形態存続すら危うかったわけです。この辺の事情は山際淳司著「GIVE UP オフコース・ストーリー」(角川文庫)に描かれてます。僕が思うにバンドとして頂点を極めてしまった以上、避けて通れない宿命のようなものだったのではないでしょうか。「YES-NO」「さよなら」というニューミュージック(メディアによってはシティミュージック扱い)というジャンルで分けられるには

あまりに惜しすぎる名曲を送り出したバンドです。どちらも音楽的には当時のLA最先端AORだし、ゴダイゴやサザンオールスターズと比べると

洗練されスマートな印象のジャパニーズ・ポップスだった気がします。彼らは鈴木康博脱退後1984年に「君が、嘘をついた」で活動再開しますが、残念ながら早々に88年には解散してしまいます。


オフコースは小田和正と鈴木康博という、どちらも曲を作って歌える2人が寄り添い始めたデュオでした。ソングライター、そしてシンガーとしてどちらも優れた才能を持っていたし、そのバランスはもしかすると後年のフリッパーズ・ギターと共通するものがあったような気もしないでもないです。シングルとして選ばれる曲が小田和正作品が多いせいで印象が薄いリスナーもいるかもしれませんが鈴木康博は郷ひろみに提供した「素敵にシンデレラコンプレックス」に代表されるように伸びやかでキャッチーなメロディがありますし、そこが認められてかソロに転じた後も松田聖子や薬師丸ひろ子、斉藤由貴や西村知美らへ多くの楽曲提供をしています。70〜80年代初頭のオフコースは小田、鈴木の2人によるライバルがバンドの中に存在することで独特の緊張感をキープしてたのが魅力だったのではないでしょうか。ちなみに松尾一彦も初期の斉藤和義をプロデュースしたり稲垣潤一や神田正輝、小泉今日子、荻野目洋子といったシンガーに楽曲提供を行うほどでしたがやはりそこは後から入ってきたメンバーです。思うに松尾さんはTHE BEACH BOYSにおけるブルース・ジョンストンみたいなものだったような気もします。オフコース解散後、松尾は吉田拓郎のツアー・サポートを始めますが女性ヴォーカルを迎えたユニット「Everything She Wants」名義でも作品を残しています。初期の斉藤和義のプロデューサーとしての活動も忘れちゃいけませんね。


初期のオフコースはソフトロック的ハーモニーを得意としてました。それが1975年発表のアルバム「ワインの匂い」から精密に組み立てられたポップ・ミュージックの装いを感じる音作りになります。のちに西条秀樹がカヴァーした「眠れぬ夜」が収録されているだけでも重要なアルバムだと思いますし、シティ・リヴァイヴァルの中でもっと騒がれてもいい作品じゃないかと思ってます。次作「SONG IS LOVE」では大間ジロー、松尾一彦が合流、ライブサポートでもすでに清水仁が参加しており黄金期のメンバーラインナップはこの時期すでに揃っていたのだ。そして「JUNCTION」「FAIRWAY」を経て人気はついに79年発表のアルバム「Three and Two」で爆発する。ちなみに筆者この時9歳。オフコースの情報はまったく感知しておらず、民放TV局はたった2局、少年ジャンプは毎週水曜日発売のカルチャー過疎地において呑気に日々を過ごしていました。「愛を止めないで」に「生まれ来る子供たちのために」と多くのファンが愛する名曲を擁したアルバムとシングルでリリースされた「さよなら」。どれも小田和正のペンによる楽曲です。アルバムの収録曲こそ鈴木康博とほぼ同じ曲数収録されてますが、2人のバランスは結成当時と比べ徐々に変わっていったのだと思います。81年発表の「We are」ではさらに顕著になり、松尾一彦の楽曲が初めて収録されたのもこのアルバムでした。ボズ・スギャックスやTOTO、スティリー・ダンを手がけるエンジニア、ビル・シュネーによる洗練された音作りは今思うと80年代の歌謡シティ・ポップのサウンド・プロダクツに大きな影響を与えた気がします。「さよなら」や「YES-NO」などまさにルーツな気がしませんか。この辺のオフコースの音を意識しながら初期の稲垣潤一のアルバム聴いてると納得してらえると思うんですけどね。乱暴な話、「ドラマティックレイン」や「夏のクラクション」って筒美京平先生のオフコースへの返答のような気がしないでもないのです。


オフコースは1984年に再始動しますが、時代は大きく動こうとしてました。それまでフォークやシティ・ポップといったジャンルに属していたニューミュージックで括られたアーティストの多くは一部をのぞき前時代的な扱いをされるようになったと思います。代表的な例がチューリップです。メインソングライターが財津和夫でオーセンティックなポップスを演る貴重なバンドでしたが、80年代に入ると世代交代の波に飲まれるようになります。

財津はそんな状況に抗うが如く大きくメンバー編成を変え、世代の違うミュージシャンを受け入れ時代にそぐう音作りを目指していたように見受けられますがやはり全盛期のような熱狂を生み出すことはありませんでした。ちなみに新メンバーとして迎えられたのは2人いましたがそのうちのひとりがのちにソロアーティストととしてデビューする高橋ひろです。「アンバランスなkissをして」「太陽が輝くとき」のスマッシュヒットで覚えている方も多いと思いますが、デビューシングル「いつも上機嫌」はFM802のヘビーローテーションに選ばれたりとその巧みなソングライティング能力は注目の的でした。デビューアルバム「君じゃなけりゃ意味がないね」は大滝詠一、筒美京平や都倉俊一、馬飼野康二といった70〜80年代の歌謡界のレジェンド・スターらのエッセンスが感じられるジャパニーズ・ポップの名盤ですのでアニメ「幽遊白書」絡みしか知らない人にこそぜひ聴いて欲しいアーティストです。


オフコースを経て小田和正はソロアーティストとして揺るぎない評価を得ますが、チューリップに関して言うと80年代中盤から90年代にかけては厳しい時代が続きます。メロディ・メーカーとしての財津和夫は松田聖子を筆頭に多くのアーティストに作品を提供していますし、一定の評価はありましたがバンドに関して言えばオフコースとの差は開く一方だったんじゃないかと思います。バンドメンバーの離脱や世代が違う新メンバーの加入、長く所属していた東芝EMIを離れメーカーを移籍したり、ソロアルバム「CITY SWIMMER」「Z氏の悪い癖」をリリースしたのは変わりゆく時代へ対応するための苦闘の産物だったように思います。そしてバンドは解散しますが、そんな状況の中追い風が吹いたのはドラマ「ひとつ屋根の下」の主題歌として「サボテンの花」が起用されたことでしょう。劇中では「魔法の黄色い靴」や「青春の影」が流れ、チューリップ再評価の動きが加速しました。


もともとビートルズからの影響という意味ではオフコースよりもチューリップ、特に財津和夫の楽曲には多く見受けられます。そんな魅力が再発見されたことと、ドラマの後押しもあり財津のセルフカヴァーシングルもヒットし、90年代のチューリップ再結成へつながっていくわけです。小田和正の「ラブストーリーは突然に」は「東京ラブストーリー」、チューリップ(財津和夫)の「サボテンの花」は「ひとつ屋根の下」でどちらもフジテレビ月9ドラマでプロデューサーは大多亮です。大多は自らのプロデュース作品で浜田省吾や尾崎豊の過去作を起用しており、タイムレス・カルチャーとしてのJ-POPを世に送り出した先駆者として解釈するのも面白いかもしれませんね。当時のフジテレビは松任谷由実(「Hello,my frends」)やサザンオールスターズ(「エロティカセブン」)も主題歌として起用しており、新人やスピッツやエル・アール、ミスチルといった同時代的アーティストだけに拘らず動いたことは現在のジャパニーズ・ポップに少なからず影響を及ぼしているのではないでしょうか。そう考えると90年代フジテレビの偉さよ、とあえて断言したいですよね。


長々と書きましたが松任谷由実やサザンオールスターズの功績は語られがちだし、ましてはっぴいえんどとその周辺アーティストの動きに関しては僕が書かずともこれまで多くの方々が書いてきたひとつの歴史です。ただ、オフコースやチューリップに関してはアーティスト単体で語られることはあってもなかなか邦楽史という大きな括りの中では積極的に語られてこなかったアーティストだと思います。正直、この不定期更新で続けている「私的KAN論(仮)」はそうあってほしくないという思いだけで続けています。もはやJ-POPは多面性多様性の歴史です。日本語で歌うことの意味云々ではないのです。



今だからわかる

あの夏の海の眩しさ

せつないぐらい 灼きついたのは

あなたの横で 見ていたせい


(「今だから」松任谷由実/小田和正/財津和夫)



1985年の夏に国立競技場で開催された邦楽フェス「ALL TOGETHER NOW」は一部ではニューミュージックの葬式と揶揄されたみたいですが世代とジャンルを超えて集まった意義はとてつもなく大きかったと思いますし、そのイベントテーマソングとして制作された「今だから」の意味を我々はもっと噛み締めていくべきでしょうね。ちなみに編曲は坂本龍一、レコーディング時の演奏は高橋幸宏(ドラム)、後藤次利(ベース)、高中正義(ギター)です。



オフコース解散後ソロに転じた小田和正はマイペースに自身のキャリアを積み重ね現在に至ります。安全地帯もユニコーンもプリンセスプリンセスも解散や活動休止(停止)を経て、ソロとバンド本体のバランスをとりつつ上手に「復活」を遂げました。復活していないのはチェッカーズとオフコースとフリッパーズ・ギターぐらいです。あ、ブランキージェットシティを忘れてたわ。


おそらく今オリジナルメンバーで復活なんて話になれば50代後半以降のエルダー層はこの世の最後の贈り物と狂喜乱舞することでしょう。でも絶対にないのだと思います。要するにオフコースの魅力って「あの日あの時あの場所」だからなんですよ。僕は「ラブストーリーは突然に」をドラマ主題歌としてではなく、オフコースへの完全決別の歌だとずっと思っていましたし、今もそう解釈しています。いつまでのあの日のままじゃいられない。そういう覚悟でもって言葉を探しメロディを紡いでいったからこそ、あの高視聴率ドラマの主題歌として、劣化することなく今もJ-POP至上の名曲として多くのリスナーに聞き継がれているのだと思うのです。


そして僕はそんなJ-POPの巨人小田和正と同質のものをKANが遺した多くの楽曲に見出さずにいられないのです。例えば小田和正の「言葉にできない」とKANの「Songwriter」はまさにその典型だと思いませんか。明確にシチュエイションが具現化されてるわけではない両曲ですが「でも歌うんだよ」という意思表示。シンガーシングライターの業を2人は表現しているのです。日常を過ごしている中でふとこぼれ落ちた気持ちを掬い取り形にする。たいそうなメッセージ性があるわけではないのでそれゆえわかりづらく伝わりづらいのですが、さりげないサムシングを歌うスタンス。ポール・サイモンの「Still Crazy After These Years」(邦題/時の流れに)はまさにその典型ですよね。街角で昔の恋人にばったり会って未練タラタラの気持ちを歌った曲ですけどこの手の歌を得意とするのが小田和正、KAN、槙原敬之じゃないですかね。考えてみると「野球選手が夢だった」収録の「1989 (A Ballade of Bobby & Olivia)」にも共通する世界観なんです。こういう誰の人生でも起こり得る小さなドラマこそがJ-POP隆盛を支えた最大の魅力だと思ってます。

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