向かい席の彼女、その向かい席の僕

僕は電車に乗っている。
学校に向かういつもの快速電車。車内は比較的ゆったりと、しかし、からっとした雰囲気がする。会話は1つもない。
電車が速度を上げる音が妙に大きく聞こえる。
もう太陽は僕の真上だ。暑いなァ。人の気も知らないでさ。

向かい側、端の席に女性が座っている。
妙齢に見えるが纏う空気はまるで中学生と言えるほど、1つ1つの挙動が忙しない。他人の瞳に映る自分を思う、落ち着きを知らない様子の人。
彼女は薄い文庫本に目をやっている。右手で支えるページの量は、ほんのまだ一章くらいの量であったが、まるでクライマックスを迎えたかのような真剣さで、読み入っている。
ページを捲るタイミングや、姿勢を変えるタイミングで題名が見えそう、なのに見えない。彼女の左手がどうにも邪魔だ。
しかし、そこまでして見てどうする。僕は目線を外した。

電車が次駅に近づく。町の風景が徐々に鮮明になる。
本を閉じた音が僕を一気に現実に引き戻した。
その刹那、本の表紙に目が止まる。
太宰治の「人間失格」だった。

電車は人を下ろし、新たに人を乗せてまた動き出す。

これは、中学生の国語の教科書に載っていた「走れメロス」以来の太宰の小説だ。地元の埃の匂いが染み付いた200円の「人間失格」。読み始めた1ページ目から、彼の考え方に共感している私がいる。

太宰は幼いころから他人の目に映る自分を気にして生きてきた人。自分に対して「失格」なんて言葉を使うのは、上手に生きようとしてできない理想とのギャップに苦しんだゆえの表現なんだろうな、と私は手元の中古本に目を落とす。
私は「自分の価値は他人が決める」と考えている。
虚しいと思っているが変わるのは難しい。
だって私は他人がいなければ存在しえないじゃないか。
いつだって過程は人には見えづらくて、結果は目立つ。私は常に結果に包まれて生きている。


みんな、将来なにかになれると信じてやまないでしょう

これを読んでいる私は周りにどう映っているのだろうか。落ち着いている雰囲気の読書家なんて思われているかしら?

僕は再び彼女を見る。なんとなく気になる。
大学生なのかな、それとも今日たまたま休みの日というだけか?見た目じゃわからない。平日の昼間にちょっとカジュアルな服装で出かける人はそういない。僕もまたその1人だけど。

最寄りに近づいていくにつれて、僕のような風貌の人たちがせわしなく荷物をまとめだす。
今日は大学の追試験。

不思議なことに、重要な試験ほど直前になると「これいけるな」という余裕が生まれる。時には珍しく掃除なんか始めたり。この心理状態には名前がある「セルフハンディキャッピング」というらしい。無意識にハンデを背負い、自尊心を保つ自衛反応らしい。

というかこんなことを調べていて、電車で微塵も範囲を確認しないうちに着いてしまった。

落ちたな。

てか、さっきの小説ってなんだったっけ?

まあいいか。


 #小説 #コラム ? #人間失格






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20年ほど生きてきて友人と話していると結構みんな映画を見ていてしかも個性があることに気づいて、映画についての感想をもっといろんな人とお話ししたいと思って初めてみました。またこれが映画を観ようか迷ってる人の背中を押せたらなおはっぴーです。(紹介文として)