とあるサービス、あるいは信仰との決別

忠実なる下部として

とあるサービス、あるいは信仰ともいうべきものとの決別から、もうすぐ1年が経とうとしている。

その信仰を捨てる前のわたしは、そのサービスを提供する者からすると実に忠実な犬だったに違いない。

毎日必ず顔は出すし、毎月のお布施を忘れることもない。時にはお布施以外の大きな買い物をすることもあった。また、先方からの困難な要求にもたいていは応えてきたし、大きなイベントの時には率先して参加した。

ただ、そんなわたしであっても、そのサービスを運営する主体は、ときどき首をかしげざるを得ないことをすることもあった。それはときに自分の使ったお金の価値を否定されるような、あるいは自分が費やした努力を否定されるようなものだったのだが、不思議とわたしは信仰を捨てる気にはなれなかった。

そこには、投じた時間やお金を無駄にしたくない気持ちや、そのサービス内で築かれていたコミュニティを裏切りたくないという依存心があったのは確かだろう。それを否定する気はないが、純粋にそのサービスが好きだったのもまた事実だと思っている。

許すことのできなかった裏切り

その後、数年の蜜月が続いたが、年月の経過とともに、わたしはそのサービスに対して、お金はともかく、時間をかけるのは難しい状況になっていた。単純に仕事が忙しくなっていたからだ。

それでも、わたしは信仰を捨てることはなかった。時間がかけられない中でも、可能な限り困難な要求に応え、イベントに参加し、ときにお金で時間を買うようなこともした。

それほどまでに、そのサービスへの信仰を続けたわたしに対し、運営は信じられないようなことをした。

それはサービス内で年に数回ある大きなイベントでのことだった。もはや思い出したくもないことなので詳細は省くが、端的に言えば、わたしがかけた時間と努力をなかったことにしたのだ。限られた時間を捻出してそのイベントに参加したその時間を、だ。

それを告げられたときの気持ちを正確に思い出すことはもはや難しい。

怒りはあったと思う。失望もしていたはずだし、なかったものにされた自分の時間と努力に対する徒労感もあったはずだ。ただ、一刻も早くこのサービスと縁を切りたい、という気持ちだけは明確に覚えている。

完全なる決別

わたしは「一刻も早くこのサービスと縁を切りたい」という気持ちに従い、そのサービスとの決別のため、あらゆることをした。

わたしが恐れたのは一時的な決別で終わってしまうことだった。

完全な決別でなければ意味がないと、そのときのわたしは強く思っていた。それは裏切りに対する怒りがそうさせただけではないはずだ。おそらく、そのサービスを信仰していたときですら、内心、信仰を続けることへの不信や不安を感じていた表れだったのだろう。

完全なる決別のため、まずやったのは、そのサービスを信仰していた際に手に入れたあらゆるものを捨てることだった。

ときにそのサービスでは、めったに手に入らないものや、特定の期間だけしか手に入らないものを、そのサービスの参加者に与えることがあった。もちろん、それらはそのサービスの外から見たら何の価値もないものだったが、参加者からするとそれを手に入れるためにそこにいる、といっていいものすらあった。

それらを全部捨てた。

手元にそれらがあると、ふとしたきっかけで、そのサービスに自分が戻っていく可能性があると思ったからだ。

また、ネットを通じて、そのサービスのことが目に触れないようにもした。SNS上で、そのサービスに関連するアカウントをブロックしたり、YouTubeでそれらに関連する動画がおすすめに出てこないようにしたりした。

ほんのわずかでも、そのサービスの情報が聞こえてくると、消えたはずの信仰に灯がともるような気がしたからだ。

精神的な決意ではなく物理的な遮断。

これが功を奏し、冒頭で述べたとおり、あの決別からもうすぐ1年が経とうとしている。

ありがとう、そして、さようなら

断言しよう。

わたしは、信仰から自由になった。

もう、あのサービスの情報がいくら耳から入ってこようと、心を乱されることもない。

それどころか、あのサービス内で出会ったものたちに対しても、今はフラットな気持ちでいられる。

そして、今なら三下り半を突きつけるかのように、無礼に去ったあのサービスに対して心から言える。

ありがとう、グランブルーファンタジー。さようなら、グランブルーファンタジー。

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