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「親の仕事」を思うゴールデンウィーク

暑いですねと話しかけた妻に、「大変なのはね!お互い様だからね!」と屋台のおばちゃん。人生の先輩らしき人が綺麗なセンター返しをしてくれた瞬間だった。

気温が急上昇したテーマパークにて、昼ごはんを求めて行列に並ぶ人、アトラクションに並ぶ人、疲れたと駄々をこねる子供をあやして運ぶ人。みんなそれぞれに「親の仕事」に従事していた。

10年くらい前、子供がいなかった時に盆暮れ正月、ゴールデンウィークの高速道路の渋滞情報のニュースを見てせせら笑っていたのは僕だ。それが今やそんなわざわざ一番混む時期に混む場所へ妻子を運ぶべく計画を立てるように変わってしまった。そうなった理由はいくつもあるが、そのいくつもある理由を渋滞を作る車それぞれが抱えて外に出ている事実を知れたことで、世の中の最も大事なことのうちの一つを掴めたといっても過言ではない。いくつもある理由については説明が長くなるのでここでは触れない。

親があたかもタスクのようにこなさなければいけない仕事っていうのが存在する。それはわかりやすいところだとサンタクロース役だったり、わかりにくいところだと小さくなったパンツや靴下を(さりげなく)捨てて新しいものに変えてあげたりとか。そういったものを通称してTwitterあたりでは親業とか呼ばれたりするが、短長期それぞれにタスクやマイルストーンや課題が散らばっていてそれを片付けていくのは確かに業を営んでいる感じがしなくもない。そう考えると、人の親である勤め人は全員複業状態にあると言えるのかもしれない。もちろん、そこに参加していればだけど。

ただ、これを業とした場合、報酬は何かと考えるとなかなか難しい。親の期待に応えさせること、と答える人もいるが、どこまで行っても子の人生は子のものなので、子サイドにそうしなければいけないインセンティブが本質的には存在しない(と僕は考えている)。インセンティブをないところから無理矢理喚起させられなくもないのが育児のダークパターンだったりもするが、それをやってしまうと中長期的にお互いに不幸になってしまうケースが多そうだ。

一方で子の笑顔が報酬です!というのはギリギリわからなくはないが、これはともすれば子のご機嫌取りに陥ってしまう危険性もあり、ご機嫌取りになってしまったら業を営んでいるとはいえなくなってしまう気もする。たぶん、隷属を「営む」という言葉では表現できないだろう。ただこれもそうしてしまうのであろう理屈や経緯は痛いほどわかる。ここまで書いて思い出したが、そもそも僕は子に対する行為を以て、子自身からなんらかの報酬は得られないと考える立場だった。

ただ、このタフなタスク群をこなす中で、報酬とまでは言えなくとも、得られたことは確実にあると考えている。あくまで僕の場合だが、それは僕自身の親のことを考える時間を持てたことだったりする。

例えば、冒頭の屋台のおばちゃんがいたテーマパークは、僕が僕の両親に約30年くらい前に連れてきてもらった場所だった。正直いって細かい点はほとんど覚えていないが、娘を連れて園内を歩き回りながら、あの日の両親もこんな風に足が棒になったんだろうなとか、子が1人でも結構大変なんだから3人はもっと大変だろうなとか、こういう理由で実家の車はカローラからセレナに変わったんだろうなとか、親に連れてきてもらったが果たして当の親は楽しかったんだろうか、とか。

僕自身楽しかったか、と言われれば楽しかったと答える。ただそれは僕がアトラクションに乗って楽しかったのではなく、娘がいろいろなことをやって楽しそうにしているのを見るのが楽しかった、というのが近い。子に対して常にうっすら感じている「なんかしてやりてえんだよ」という声に出しようがない欲望を自分たちができる範囲で満たしたことに満足している、ということなのかも知れない。

それは所詮エゴじゃんと言われれば確かにそうですとしか言いようがないが、みんながいつも勤務なり委託されたりでしている仕事だって自らのエゴを形を変えて具現化しているものでしょう?少なくともいい仕事っていうのは自分のエゴを突き通しつつ社会実装した結果が周囲を幸せにするものなんじゃないかなと思っている。


より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。