学校とフリースクール(政治家が期待しているかもしれない学校像)

フリースクールで、教育ができていないという認識の保守系の政治家の頭の中にあるものは、おそらく、いかに知識レベルで同質であったとしても、彼らの思い描く歴史認識に基づいた愛国心の醸成が欠如しているものを教育とは呼ばないという発想から始まっているのでは。

彼らが大切に考えているところの、戦争責任を負うことについて、それを学んだうえで責任などないとする人と責任を感じて背負わんとする人がいるかもしれないが、いずれの立場であっても、戦争責任について、考えて議論して自分なりの結論を得ようとするかどうかが重要であって、戦争責任に代表されるような、ある共同体に存在する限りにおいて持たざるを得ない『連帯の責務』自体を認知や思考の埓外に置いて全く意識せずに暮らすことは、人間社会で生きていく以上、許容されないのかもしれない。
言い換えると、この場所に生まれ落ちたときから、この場所にある『連帯の責務』はつきまとうのである。

国というと違和感があるのであれば、家族と置き換えてもいいかもしれない。

親や親類の過去の犯罪、それだけでなく疾病や障害を背負うことを求められたり、考えさせられたりすることを思えば、そこから逃れるのが容易でないことは理解できると思う。

そういった共同体における、『連帯の責務』の存在を全く無視した哲学がリベラリズムというものなのだが、生の現実社会は『連帯の責務』を排除したリベラリズムだけでは語り尽くすことができない。

子であれば親のこと、親であれば子のこと、兄であれば弟のこと、親も子も兄弟や親類縁者がいなくとも、隣人や同胞や同じコミュニティの構成員のこと、さらには過去のそういったつながりのある人々の何かを背負わざるを得ないという責務を持って生まれていて、それが面倒だから逃れたいと、一時的に退避するような新たなコミュニティを作ったとしても、そこにはまた新たな連帯の責務が待ち構えているのが、人間社会というものではないだろうか?

結論がおそくなったが、従来の学校であろうと、フリースクールであろうと、人間社会の一員として暮らす以上は、最終的には共同体における連帯の責務から逃げ切ることはできないのであって、従来の学校が表面的に歴史教育や愛国精神を植え付ける形を取っていることで、『連帯の責務』を強く意識して、自己犠牲を厭わない人間が作り上げられると信じるのはお気楽すぎるし、逆にフリースクールに行けば、人間社会の連帯の責務という面倒なものを完全に排除した人生を送ることができると考えるのも甘い考えだと言えるだろう。

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