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ロック喫茶があった時代


■ロック喫茶とは?

 昔、…1970年代~80年代にかけて全国各地に「ロック喫茶」なるものが存在した。ロック喫茶がいつ頃生まれ、いつ頃消えていったのかは知らない。僕がロック喫茶によく通っていたのは高校2年~大学1年にかけての頃で、つまり1972年~1974年という時期だ。高校時代は名古屋で、大学に入ってからは東京の店に通った。
 
 ロック喫茶は、当時たくさんあったジャズ喫茶とはある種対極の存在だった。ジャズ喫茶が静かに音楽を聴く「大人の空間」「気取った空間」であったのに対し、ロック喫茶は少し「尖った空間」だったと思う。外からは中の様子が見えない入り口、ドアを開けると薄暗くてあまり広くない店内、大音量で流れるロック、もうもうと立ち込めるタバコの煙、長髪にヒッピーライクな服装の若者たち、そしてビールやカクテルなどのアルコールが提供される店も多かった。そこで語られるのは音楽と政治の話。客層はなんとなく左翼系の若者が多かった気がする。やはり、革命・反体制とロックミュージックは親和性が高いのかもしれない。僕自身も、友人達と共に「革命」「社会の変革」を夢見ていた時代である。ロック喫茶には、音楽好きが集まるのはむろん、どことなく学校や社会の在り方に不満があり、素直に社会の流れに乗れない若者の居場所にもなっていたように思う。コーヒー1杯で半日ぐらい粘るのは普通だった。70年代初頭のロック喫茶は、存在自体がひとつの「カルチャー」だったと思う。2024年の現在、当時のロック喫茶について語る人間は、僕も含めて皆70代を迎えようとしている。つくづく時代の変遷を感じる。
 
 ロック喫茶はライブハウスとは営業形態が異なる。中には時々ライブをやる店もあったが、基本はロックのレコードを大音量で流すだけの店だ。ライブハウスよりは「箱」が小さく、狭い店が多かった。大音量の音楽を流しても近隣の迷惑にならないように配慮してか、ビルの地下などに立地する店が多かったように思う。
 当時の名古屋で行ったロック喫茶は、自宅にも高校にも近い桜山にあった「ATOM(アトム)」(自宅から徒歩15分)、今池にあった「時計じかけ」、そして伏見にあった「be-in(ビーイン)」など。そしていちばんよく行ったのが川名にあった「Big Pink(ビッグピンク)」だ。店名のBig Pinkは、言うまでもなくザ・バンドのメンバーが暮らし音楽制作に勤しんだウッドストックの家・スタジオの「Big Pink」に因んだものだ。
 Big Pinkは、もともと同じ愛知県の一宮市で営業していたロック喫茶「文文」が1970年に名古屋市昭和区の川名(八事の近く…と言っても名古屋の住人しかわからないだろうけど)に移転して「文文Ⅱ」として開業し、その文文Ⅱが1972年に閉店して同じ場所に開業した店だ。僕が高校2年生の時だ。文文Ⅱにも何度か行ったが、Big Pinkになってからの方がよく行った。文文ⅡとBig Pinkは、経営者が同じだったかどうか詳しいことは覚えていない(そのあたりの経緯は昔聞いたような気がするが忘れた)。Big Pinkがあった川名は、自宅から自転車で15分だった。
 
 そう言えば、名古屋を代表する(?)ロックバンド「センチメンタルシティ・ロマンス」の結成に参加した中野督夫さん(昨年逝去した。合掌)は、名古屋出身で僕と同い年だが、彼はBig Pinkの常連だった。まあ、センチの音楽はウェストコーストサウンドに近いもので、当時の僕の好みではなかったけれど…
 
 70年代の初めのBig PinkやATOMでかかっていたレコードは、一口にロックと言っても多種多様なジャンルがごちゃ混ぜだっと記憶している。ツェッペリンやクラプトン、グランドファンク、テンイヤーズ・アフター、マウンテン、ジミ・ヘンドリックスなどのブルースロックやハードロックが多くかかっていた気がするが、セッション系のシカゴやジャズ系のサンタナ、マハヴィシュヌ・オーケストラを始め、ドゥービー・ブラザーズなどのウェストコースト・ロックやピンク・フロイドやイエスなどのプログレッシブもかかっていた。そしてBig Pinkではその店名の通りザ・バンドのアルバムがよく流れていたし、CSN&Yやグレイトフル・デッドもよくかかっていた。当時、サマー・オブ・ラブを生み出したヒッピー文化やウッドストック・コンサートに憧れ、アメリカン・ニューシネマを見てアメリカの風景に憧れていた僕は、ロック喫茶で流れる音楽に強くアメリカを感じてもいた。
 
 大学に入学して上京したのが1973年、オイルショックの年だ。入った大学は学費値上げ阻止闘争の真っ最中で、教養課程の日吉キャンパスがロックアウトされており、秋頃まではまともに授業がなかった。アルバイトに精を出しては、そのお金でロック喫茶やライブハウス、小劇場などに通っていた。住んでいた下宿も日吉だったので、遊びに行くのは東横線1本(50円)で出られる渋谷か横浜(30円:当時は桜木町が終点)がホームグラウンド。よく行ったロック喫茶は渋谷の「B.Y.G(ビグ)」と「ブラック・ホーク」。百軒店のブラック・ホークは、私語禁止だったと思う。ロック喫茶ではないけれど渋谷の小劇場「ジァン・ジァン」のライブにもよく行ったし、渋谷以外では高円寺の「ムービン」にも時々行った。そして同じく日吉から東横線1本で行ける横浜。当時の横浜では関内の「夢音」、日の出町の「グッピー」、福富町の「ムーテェ」などに行った記憶がある。
 
 こうしてこの時期にロック喫茶によく通ったのは、その雰囲気が好きだっただけでなく、「最新のロックを聴く」ためでもあった。つまり、「高くてレコードが買えなかった」からだ。1973年頃のLPレコードの値段は1枚2500円、アルバイトの時給が300円の時代に、レコードなんて高値の花だった。また、自宅の居間にステレオはあっても、そこで大音量でロックのレコードをかけるのは、家族に憚られた。大学生になって下宿するようになったら、音楽事情はよりひどくなった。下宿の部屋にレコードプレーヤーは無く、ラジオ以外に音楽を聴く手段がなかった。好きな音楽を聴くためには、必然的にロック喫茶に行かざるを得なかったのだ。ロック喫茶で、初めて聴く曲は多かった。
 
 ところで、僕のロック喫茶通いはとりあえず高校2年から大学1年までの3年間で終わる。19歳半ば以降はしばら音楽以外のことに夢中になり、ぱったりと行かなくなった。その時期の話は、また別のところで書くつもりだ。

■国産エレキギターが熱かった名古屋

 ロック喫茶通いをしていた頃の「ギター」について、記憶している範囲で当時の事情を書いておこう。
 小学校高学年になって、自宅にあったクラシックギター(ガットギター)を弾き始めたのが僕のギターとの出会いだ。父のギターだった。サラリーマンの父は音楽・楽器が好きで家にはいろいろな楽器があったが、父の楽器好きはおそらく祖父(父方)の影響だろう。父が幼い頃に他界して僕は会ったことがない祖父だが、盲目の祖父は「検校」で、数百人のお弟子を持つ箏曲(琴)の師匠だったそうだ。その祖父の影響で音楽好だった父のせいで、僕は小学校に上がる前からヤマハ音楽教室に通わされた。家には電子オルガン、アコーディオン、バイオリン、ギターなどいろいろな楽器があった(三味線や琴、尺八もあった)。ギターを弾き始めた僕は、中学生の頃に独学でコードを覚え、アルペジオを覚え、フォークや歌謡曲を弾きながら1人で唄っていた。当時ギターのコードと言えば、よく買った「guts ガッツ」「新譜ジャーナル」という2つの雑誌を思い出す。高校生になってすぐに、貯めていた小遣いで買ったのがフォークギターだ。メーカーは覚えていないけど、1万円ぐらいで買ったと思う。2フィンガー、3フィンガーのピッキング奏法をひたすら練習したのもこの頃だ。
 エレキギターが欲しくなったのは、ロックにハマった高校2年になってから。いくら欲しくても、純正のフェンダーだのギブソンだのが買えるわけがない。70年代初め頃の純正のストラトの価格は、20万円近かったと記憶している。これは大卒の初任給が6~7万円だった時代の話だ。そこで国産の安いギターを狙うわけだが、Grecoとかフェルナンデス、グヤトーンなどの国産ギターで安いものが3~4万円だったろうか、これでもずいぶんと高価でサラリーマン家庭の高校生には簡単には買えない。結局友人の兄が所有していた古いギターと小さなアンプをセットで1万円で譲ってもらった。これがGrecoの「EG-360」というレスポールのコピー版。本当はストラトのコピーが欲しかったのだが、ともかく初めてのエレキギターである。エフェクターは中古品のフィルター ディストーションとテープエコー。レスポールということで、早速ジミー・ペイジのコピーに精を出した。ともかく、有名曲のリフのコピーに夢中になった。ちなみに社会人になってからの僕は、ギターはテレキャス一筋だ(フロントはハムバッカー)。
 余談になるが、昔の格安ギターで、通販(二光通販)で売っていたトムソン(TOMSON)というブランドのエレキギターがあったが、あれはどこが作っていたのだろう…
 
 60~70年代の国産エレキギターと言えば、神田商会(Greco)、東海楽器製造、富士弦楽器(フジゲン)、マツモク、東京サウンド(グヤトーン)などのメーカーを思い起こすが、僕が高校卒業まで住んでいた名古屋という街も、実は知られざる楽器製造が盛んな土地で、しかも古くからエレキギターの製造・販売メーカーがいくつもあった。1970年前後は、名古屋は国産エレキギター製造のメッカでもあった。
 まずは星野楽器。「アイバニーズ」のブランドで知られる星野楽器は、かつて名古屋で最大の書店チェーンだった星野書店の楽器部から始まっている。そして「アリア」や「Legend」のブランドで知られる荒井貿易(アライ)も名古屋の企業だ。1956年に愛知県名古屋市に荒井貿易株式会社として創設された。意外と知られていないのが春日楽器製造だ。後に民社党の書記長として国会で名を馳せた名古屋の政治家・実業家の春日一幸(嫌な奴だった)が創業した会社だ。この春日楽器製造は、60年代初頭からエレキギターを製造し、「春日ギター」を世界中に輸出していた。さらに、名古屋市に本社を置く共和商会も忘れてはならない。ストラト、テレキャス、レスポール、SGなど、フェンダーやギブソンの安価なコピーモデルを数多く製品化していた。
 
 いずれにしても、神田商会によるフェンダー・ジャパン設立の経緯やOEM製品の水準を見ればわかるように、当時の日本の国産メーカーのギターは高い製造技術と品質を持っていた。単なる安物のコピー品とバカにできない製品が多かったのは確かだ。聞くところによると、70年代の日本製ビンテージギターは、現在は世界的に需要があり、製品によってはオークションなどで高い値段で取引されていると言う。

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