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ロックとカントリー ~若い頃はカントリーに興味がなかったのに…

 僕は、こちらの記事で「アメリカン・ルーツ・ロック」が好きだ…と書いたが、実はルーツ・ロックというジャンルの音楽に本格的にのめり込みレコードを買い漁るようになったのはかなり後のことで、社会人になって30代を過ぎてからだ。そして、それは60代になった現在も続いている。ただし、ルーツ・ロックという音楽ジャンルには厳密な定義があるわけではないようだし、このジャンルに属するミュージシャンが誰と誰なのかも特に決まっているわけではないだろう。なんとなく、集めたアルバムや日常聴く音楽の多くが「巷で言われるところのルーツ・ロック」ではないかと、勝手に思っているだけだ。


■ロックとカントリー

 ロックに目覚めた高校時代は、先に挙げたツェッペリンやクラプトン、グランドファンク、テンイヤーズ・アフターなどのブルースロックやハードロックが好きだった。基本的には、こちらで書いたようにロック喫茶で大音量で聴くロックならばジャンルは何でもよく、ハードロックだけでなく、先に書いたピンク・フロイドやイエスなどのプログレッシブロックや、ドゥービーやグレイトフル・デッドなどウェストコーストサウンドも聴いていた(過去形で書いているが今これらの音楽が嫌いというわけはない)。
 また、高校時代は日本のロックバンド、ロックミュージシャンも好きだった。洪栄龍、陳信輝、白竜バンド、紫、コンディション・グリーン、フラワー・トラベリン・バンドなどもよく聴いていた。70年代初頭に京大西部講堂で開催された伝説のロッコンサート「MOJO WEST」は、仲間内でいつも話題になっていた、MOJO WESTでは、ウエスト・ロード・ブルースバンド、フラワートラベリング・バンド、村八分、PYG、モップス、ジプシー・ブラッド、ミッキー・カーチス&SAMURAI、陳信輝、タージ・マハール、麻生レミ、成毛シゲル、角田ヒロ、柳ジョージ、井上尭之グループ、頭脳警察、カルメンマキ&エンジェルスなど多くのミュージシャンが演奏していた。
 
 こうした「基本はハードロックが好き」「ロックなら何でも好き」に近い無節操な嗜好が、アメリカン・ルーツ・ロックに収束していったのは、20代も後半になってからだ。具体的には80年代に入った頃だ。とは言え、高校時代、70年代には既にルーツ・ロックに属する音楽はたくさん聴いていた。ボブ・ディラン、ザ・バンドは言うに及ばず、CSN&Y、ザ・バーズ、オールマン・ブラザーズ・バンド、ニッティ・グリッティ・ダート・バンド、ジョー・コッカー、レオン・ラッセル、CCRなどはお気に入りだった。しかし、彼らのサウンドを「アメリカン・ルーツ・ロック」という一括りのジャンルとして認識してはおらず、大好きなロックサウンドのひとつに過ぎなかった。第一、70年代には「アメリカン・ルーツ・ロック」という言葉自体が無かったと思う。いや「ルーツ」という言葉は70~80年代にはあったような気もするが、現在のようにある種系統立てて語られるロックのジャンルではなかったし、自分は特に意識したこともなかった。
 
 アメリカン・ルーツ・ロックのベースになっている音楽、つまり「ル-ツ」には、大きく「ブルース」「フォーク」「カントリー」がある(「ソウル」や「ジャズ」「ゴスペル」などもあるけど…)。うち、ブルースについてはもともtロックとの親和性が非常に高いことは言うまでもない。フォークもロックとの親和性は高い。親和性が高い…というよりも、ボブ・ディラン、ママス&パパス、ジェファーソン・エアプレイン CSN&Yなど、フォークからロックへと移行したミュージシャンは枚挙に暇がない。
 しかしカントリーに関しては、昔はロックとはかけ離れた「ぬるい」「掴みどころのない」音楽だと思っていた。高校時代からアメリカに憧れていたから、雰囲気的にもカントリーが嫌いだったわけではない。大好きなアメリカン・ニューシネマ、ロードムービーの中でBGMに使われるカントリー・ミュージックは、映画の中のアメリカの光景にマッチしていた。ただ、カントリーはロックとは全く別のジャンルの音楽だと思っていただけだ。当然ながら、例えばジョージ・ジョーンズやハンク・ウイリアムズ、ウィリー・ネルソン、ジョニー・キャッシュのような「純粋(?)なカントリー」や「ブルーグラス」には全く興味がなく、あえて聴きたいともレコードを欲しいと思ったこともなかった。
 
 そして、社会人になってレコード収集とオーディオ機器にお金を使えるようになった20代中頃、そう70年代の終わり頃から80年代にかけて、まずは高校時代から好きだったザ・バンドのアルバムをコンプリートし、続けて先に書いたように高校時代にラジオやロック喫茶で聴いていたCSN&Y、ザ・バーズ、ニッティ・グリッティ・ダート・バンド、グレイトフル・デッド、ライ・クーダー、デレク・アンド・ザ・ドミノス、ジョニ・ミッチェル、ドン・マクリーン、ジョー・コッカーなどのアルバムを買い集めるようになった。さらに「アメリカの匂いがする」レオン・ラッセルやCCR、オールマン・ブラザーズ・バンドなど、スワンプロックやサザンロック、デルタ・ブルース系のアルバムも片っ端から購入するようになった。この「アメリカの匂いがする」ロックのアルバムを買い集める中で、かつて「ぬるい」と思っていたカントリーと本来好きなロックの境界が徐々になくなり、その後年を経るにつれてカントリー・ミュージックが好きになっていった。もう80年代に入ってからである。
 
 70年代の終わり頃から80年代にかけてアメリカン・ルーツ・ロック(当時は特に意識したジャンルではない)に傾倒する中で、カントリーへの「ある種の偏見」…、つまり「ロックとは相容れない音楽」という先験的なイメージは徐々に払拭されてきた。考えてみれば当然である。ザ・バンドは言うに及ばず、70年代から聴いていたロックの多くには、元々カントリーのエッセンス、テイストが含まれていたのだから。
 
 さらに80年代の後半(30代半ば)ぐらいからは、カントリーテイストのロックに限らず、ロックではない、よりカントリーの味が強いルーツミュージックをかなり積極的に聴くようになった。フォークに近いカーター・ファミリーやウディ・ガスリー、そしてグレン・キャンベル、ロレッタ・リン、タニヤ・タッカーなどの古典的なカントリーの味を持つシンガーや、比較的新しい新しいところではアリソン・クラウス、スティーヴ・アールなどオルタナ・カントリー系のミュージシャンのレコード、CDなども買い集めるようになった。
 
 こうして僕のような「ハードロック好き」が、徐々にカントリー色の強い音楽を受容してきた経緯を書いていると、60年代後半から70年代、さらには80年代にかけて「ロックとカントリーの融合」が、ごく自然に進んだように感じる。しかし、実はロックとカントリーの融合には、大きな役割を果たした人物、「触媒」となったミュージシャンが何人か存在する。その1人がグラム・パーソンズだ。

■グラム・パーソンズ(Gram Parsons)

 同時代、そして後の世代の多くのロック・ミュージシャンに影響を与えたグラム・パーソンズは、カントリーとロックの垣根を取り払った立役者である。でも僕がグラム・パーソンズの存在を知ったのはかなり後の時代になってからだ
 
 1966年にインターナショナル・サブマリン・バンドを結成してミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせたパーソンズは、1968年にザ・バーズに加入する。同じ1968年にそのザ・バーズは、「Sweetheart of the Rodeo(ロデオの恋人)」というアルバムをリリースした。僕がこのアルバムを購入したのは80年代に入ってからだ。このアルバムのB面に収録されていた「Hickory Wind(ヒッコリー・ウィンド)」という曲が非常に好きで、この曲を作り、自ら甘い声で唄っているグラム・パーソンズというミュージシャンの存在を知ったのがおそらく最初だ。ちなみに「Hickory Wind」というカントリー・ワルツは、パーソンズ以外にも多くのミュージシャンが歌っており、中でもエミルー・ハリス(Emmylou Harris)の歌はとてもいい。
 
 今でこそ、グラム・パーソンズに関する情報はネット上に溢れている。しかし、僕がパーソンズを知った80年代初めには、インターネットも無く、彼についての詳しい情報は入手しづらかったように思う。当時の僕は音楽雑誌をよく読んでいたし、貴重な情報源としてレコードのライナーノーツも読み込んでいた。洋盤のライナーノーツも翻訳して読んでいた。ロックファンとしては、積極的に情報を収集していた方だと思うが、それでもパーソンズに関する情報、彼の詳しい経歴や彼の音楽性が培われた経緯、当時のロックシーンにおける彼のポジションなどは、よく知らないままで80年代が過ぎていった。まあ、当時はまだパーソンズ個人にそれほど思入れや興味があったわけはなかったので、得られるべき情報を見落としていたのだろう。
 だから、12歳での父親の自殺、ハーバード中退、キース・リチャードとの交友、エミルー・ハリスとの交際、ソロアルバムをリリースした経緯、ドラッグ中毒、若くしての死、そして音楽活動を始めた60年代半ばから73年の死に至るまでに短い期間に残したパーソンズの足跡、多くのミュージシャンに与えた具体的な影響…などの情報を詳しく知ったのは、ずっと後、もう80年代も半ばを過ぎてからだ。
 
 パーソンズに注目して、本格的に音源を集め始めたのは90年代に入ってからだ。
 彼は、先に挙げた「Sweetheart of the Rodeo」に名曲を残しながら、わずか1年でザ・バーズを脱退する。1968年にクリス・ヒルマンらとフライング・ブリトー・ブラザーズを結成し、1969年に「黄金の城(The Gilded Palace of Sin)」、1970年に「ブリトー・デラックス(Burrito Deluxe)」を発表する。そしてフライング・ブリトー・ブラザーズ脱退後の1973年から74年にかけて「GP」「グリーヴァス・エンジェル(Grievous Angel)」という2枚のソロアルバムを出す。これらのアルバムを入手し、最後に彼が1986年に結成したインターナショナル・サブマリン・バンドの「Safe at Home」も入手。これらのアルバムを集め始めた80年代の半ば以降、既に時代はレコードからCDに移っていた。
 
 ここでは、パーソンズがどのような音楽活動をしたのか、どのように世界のロックシーンに影響を与えたかについて、詳しく書くことはしない。ネット上や音楽雑誌に、いくらでも情報があるから興味がある向きは読んで欲しい。いずれにしても、パーソンズはロックの歴史、特にアメリカのロック史を語る上で最も重要なミュージシャンの一人…という評価が定まっている。彼が影響を与えたミュージシャンは、ザ・バンド、CCR、CSN&Y、リトル・フィート、オールマン・ブラザーズ、イーグルス、エルヴィン・ビショップ、マーシャル・タッカー、グレイトフル・デッドなど枚挙に暇がない。あのローリング・ストーンズすら彼の影響を受けている。彼は、1973年にジョシュア・ツリーの砂漠にあるモーテルで麻薬の過剰摂取で死去した。生前よりも死後に、その音楽性、影響がより高く評価されたミュージシャンと言えるだろう。
 
 僕は、アルバム「黄金の城」に収録された「ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート」(The Dark End of the Street)が大好きだ。また「Grievous Angel」に収録された「Love Hurts」のエミルー・ハリスとの甘いデュエットも大好きだ(死後の1982年に発売されたライブ・アルバム「Live 1973」に同曲のライブ音源が収録されている)。エミルー・ハリスとのデュエットなら、「That's All It Took」もいいなぁ…
 これらの曲はいずれも、ロックというには余りにも「ぬるい、ゆるい」曲で、昔の自分、20代前半までの自分なら絶対に聴かなかなったタイプの音楽である。
 
 パーソンズは、「カントリー・ロック」または「オルタナティブ・カントリー」に属するミュージシャンとして扱われることが多い。この「オルタナティブ・カントリー(オルタナ・カントリー、オルト・カントリー)」という言葉、音楽ジャンルも、いつ頃から言われ始めたのか定かではない(僕が知らないだけかも)。おそらく90年代になってから使われ始めた言葉だと思う。またその意味するカテゴリーも曖昧だ。
 ただ、60代になった現在の僕はこのオルタナ・カントリーにどっぷりと浸かった音楽ライフを送っている。
 
 オルタナ・カントリーは、何故か女性シンガーに似合う。だから、ここ数年はPCに向かってモノを書いたり、仕事をしながらのBGMに使う音楽は、このジャンルの女性シンガーのアルバムばかりだ。昔から好きですべての音源を集めたエミルー・ハリスを始め、パティ・グリフィン、ルシンダ・ウィリアムス、正統派カントリー色が強いアリソン・クラウスやミランダ・ランバート、パティ・ラブレス、フォーク系に近いギリアン・ウェルチ、アイリス・デメント、ショーン・コルヴィン、そしてマリア・マルダー…と言った面々のアルバムばかり聴いている。MP3にエンコードして、Bluetoothスピーカーを通して1日中流している。毎晩居酒屋に通う不良老人のスローライフには、オルタナ・カントリー系の女性シンガーが似合っている。
 こうした僕が好きな女性ミュージシャンたちに、パーソンズは大きな影響を与えた。グラム・パーソンズは、本当に偉大なミュージシャンだと、あらためて思う次第だ。


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