「わたしは光を握っている」

『自分は光をにぎつてゐる』
作:山村暮鳥

自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌(てのひら)をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど

自分は光をにぎりしめる

<訳>
光をにぎっていることに確信が持てない。からっぽであるかもしれない。けれど、自分はにぎっている。いよいよ、しっかり握る。烈しい暴風、とは何か。それぞれの「烈しい暴風」の経験があり、その経験から、わずかばかりでも掴んだ光がある。あるはずだ、と信じている。その光を、苦しければ苦しいほど、信じ抜くこと、強く握りしめること。その意志が、闇ごと光に変えてくれる。

こんばんは。メールの折り返しありがとね。君とのやり取りは楽しくて。毎回、お返事が楽しみです。
 さて、今回の冒頭。明治から大正にかけて活躍した詩人:山村暮鳥(やまむらぼちょう)の詩(うた)から始めてみました。実はこの詩を知ったのは最近です。

 先日、松本穂香ちゃん主演の映画「わたしは光をにぎっている」という映画を見てきました。その中で主人公のおばあさんが愛読していた詩の一つ。映画を見てる最中もこの詩がとても心に残り、帰宅後に改めて調べてみたのでした。
君は、これから専門学校、そして社会人へと人生を進めます。そんな君にはいつも、「光=チャンス」「出会い」「機会」がある事でしょう。

 わずかばかりのそれらのキッカケをしっかりと握りしめてほしい。そして、人生の半分を過ぎている私にも、わずかながらの「光」はあり、もしそれがあるのであれば、その光を強く握りしめたいと思うのでした。どうせ、あの事故で、一度は死んだかも知れない人生なのだから。


 映画の中で、主人公のおばあさんは彼女に良いタイミングで、言葉を与えてくれます。それは彼女にとって光なのかもしれない。彼女も稚拙ではあるけど、その光を握りしめようと努力する。最後には、暖かくなるハッピーエンド。ところどころにドキュメンタリーのような風景を挿入し、ハッとする美しい映像(松本穂香ちゃんにドキッとしたり)。

 何気ない日常を切り取ったような映画にホッとする思いでした。
映画館では、「ターミネーター」や「アナ雪2」に押されて、不人気そう(残念!)もう直ぐ上映が終わりそうだったけど、私は派手さはないけどこういう映画がしみじみ残って欲しいなあと思うのでした。

それでは また。

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