吉備野庵

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「行持」を学ぶ(6)

【仏の道:遠望・近見】 (165) 「行持」を学ぶ(6)    六祖は新州の樵夫なり、有識と称しがたし。    いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。  中国の六祖、大鑑慧能禅師は、もと新州の樵であり、学識者とは言えない。彼は幼くして父を喪い、老母に養育されて成長した。    樵夫の業を養母の活計とす。    十字の街頭にして一句の聞経よりのち、    たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。  そして樵の業で母を養い生計を立てた。ある日、街頭の十字路で経文の

    • 「行持」を学ぶ(5)

      【仏の道:遠望・近見】 (164) 「行持」を学ぶ(5)    第十祖 波栗湿縛尊者は、一生脇不至席なり。    これ八旬老年の辨道なりといへども、    当時すみやかに大法を単伝す。  第十祖 波栗湿縛尊者は、生涯 身体を横たえて休むことがなかった。この方は、八十歳の老年になってから修行を始められたが、その当時、短期間の中に大法を受け継いた。    これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、    わづかに三箇年の功夫なりといへども    三菩提の正眼を単伝す。    

      • 「行持」を学ぶ(4)

        【仏の道:遠望・近見】 (163) 「行持」を学ぶ(4)    第八祖 摩訶迦葉尊者は、釈尊の嫡嗣なり。    生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。  第八祖 摩訶迦葉尊者(マカカショウソンジャ)は、釈尊の法を継がれた方である。生前には、専ら十二頭陀という欲を捨てた生活を行い、決して怠ることがなかった。    十二頭陀といふは、    一つには、人の請を受けず、日に乞食を行ず。    亦比丘僧の一飯食分の銭財を受けず。  十二頭陀とは、次のような生活法であ

        • 「行持」を学ぶ(3)

          【仏の道:遠望・近見】 (162) 「行持」を学ぶ(3)    慈父大師釈迦牟尼仏、十九歳の仏寿より、深山に行持して、    三十歳の仏寿にいたりて、大地有情 同事成道の行持あり。    八旬の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。  慈父であり大師である釈尊は、十九歳の時から深山で行持され、三十歳の時には、大地の生きとし生けるものと共に、仏道を成就する行持をされた。そして八十歳に至るまで、そのまま山林で行持され、精舎で行持された。    王宮にかへらず、国

        「行持」を学ぶ(6)

          「行持」を学ぶ(2)

          【仏の道:遠望・近見】 (161) 「行持」を学ぶ(2)    その行持の功徳、ときにかくれず。    かるがゆゑに発心修行す。    その功徳、ときにあらはれず。    かるがゆゑに見聞覚知せず。  その行持の功徳は、時に隠れることなく現れる。そのために発心し修行するのである。又、その功徳は時に現れない。そのゆえに何の見聞も、覚知もなく、気付くことがない。    あらはれざれども、かくれずと参学すべし。    隠顕存没に染汙せられざるがゆゑに。  しかし、功徳は現れ

          「行持」を学ぶ(2)

          「行持」を学ぶ(1)

          【仏の道:遠望・近見】 (160)     初めに一言   仏道を学び始めると、「行持」(ギョウジ)の大切さが強調される。常に持続して修行に務めることを意味するが、その教えの典拠は、道元禅師の『正法眼蔵』「行持」巻(上・下)である。すなわち「行持」上巻巻頭に道元禅師自身によって規定されている禅語である。 「行持」巻は、『正法眼蔵』の中でも最も長文である。何故、このように大部のものを執筆されたのか? それも道元禅師ご自身が、最初に述べておられる。 「仏祖の大道、必ず無上

          「行持」を学ぶ(1)

          仮想仏教世界「テラバース」出現か

          【仏の道:遠望・近見】 (159) 仮想仏教世界「テラバース」出現か ご本尊は、お釈迦様アパター 先日(9月7日)のことですが、京都大学「人と社会の未来研究院」の熊谷誠慈准教授と株式会社テラバース(古屋俊和CEO)の共同研究グループが、仏教とデジタル新技術・「メタバース」を融合させた仏教仮想世界「テラバース」の開発を開始した、とその構想を公開しました。 「テラバース」とは「一兆(テラ)の宇宙(バース)」という意味で、伝統知とテクノロジーを融合させ、重層的な精神世界を構築し

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          「帰依三法」を学ぶ(13・最終回)

          【仏の道:遠望・近見】 (158) 「帰依三法」を学ぶ(13・最終回)    これを天帝拝畜為師の因縁と称す。    あきらかにしりぬ、仏名、法名、僧名のききがたきこと、    天帝の野干を師とせし、その証なるべし。  これを、帝釈天が畜類を礼拝して師とした因縁と言う。この話から明らかに知られることは、仏(仏陀)という呼び名、法(仏法)という呼び名、僧(僧団)という呼び名は、この世界では聞くことが難しいということ。これは、帝釈天が仏の名を称えた狐を師としたことが、その

          「帰依三法」を学ぶ(13・最終回)

          「帰依三法」を学ぶ(12)

          【仏の道:遠望・近見】 (157) 「帰依三法」を学ぶ(12)    未曾有経に云く、    「仏 言はく、過去 無数劫の時を憶念するに、    毗摩大国徙陀山の中に、一の野干あり。    而も師子の為に逐はれて、食はれなんとす。  未曾有経には次のように説かれている。 「仏(釈尊)は言われた、遥か遠い昔、毗摩大国の徙陀山の山中に一匹の狐がいた。ある日、その狐は獅子(ライオン)に追われて食われそうになった。    奔走して井に堕ち、出づること得る能はず。    三日を経

          「帰依三法」を学ぶ(12)

          「帰依三法」を学ぶ(11)

          【仏の道:遠望・近見】 (156) 「帰依三法」を学ぶ(11)    法句経に云く、    「昔、天帝有り、自ら命終して驢中に生ぜんことを知り、    愁憂すること已まずして曰く、    「苦厄を救はん者は、唯仏世尊のみなり。」  法句経には次のように説かれている。  「昔ある帝釈天が、自分の命が終ると来世は驢馬に生まれることを知って、憂い悲しんで言った。「私のこの苦難を救ってくれるものは仏(釈尊)しかいない。」と。    便ち仏の所に至り、稽首伏地して、仏に帰依したて

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          「帰依三法」を学ぶ(10)

          【仏の道:遠望・近見】 (155) 「帰依三法」を学ぶ(10)    この龍女、むかしは毗婆尸仏の法のなかに、    比丘尼となれり。    禁戒を破すといふとも、仏法の通塞を見聞すべし。  この竜女は、昔、毘婆尸仏の教えによって出家し尼僧となった。出家の禁戒を破ったが、きっと仏法の消息を見聞したことであろう。    いまはまのあたり釈迦牟尼仏にあひたてまつりて、    三帰を乞受す。ほとけより三帰をうけたてまつる、    厚殖善根といふべし。  そして今 竜女は直接

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          「帰依三法」を学ぶ(9)

          【仏の道:遠望・近見】 (154) 「帰依三法」を学ぶ(9)    仏 又問ふて言はく、    「若し是の如くならば、此の中の劫尽きんに、     妹何れの処にか生ぜん。」  仏は又、竜女に尋ねた。 「それならば、三悪道(地獄、餓鬼、畜生)の中の九十一劫が尽きれば、あなたは何処へ生まれると思うか。」    龍婦答へて言はく、    「我 過去の業力の因縁を以て、の世界に生ずべし。    彼の劫 尽くる時、悪業の風吹いて、    還た来って此に生ぜん。」  竜女は答えた

          「帰依三法」を学ぶ(9)

          「帰依三法」を学ぶ(8)

          【仏の道:遠望・近見】 (153) 「帰依三法」を学ぶ(8)    「爾の時に、衆中に盲龍女有り。    口中膖爛して、諸の雑蟲満てり。  「その時に、人々の中に盲目の竜女がいて、口の中は腫れ爛れて多くの虫で満ち溢れていた。    状屎尿の如く、乃至穢悪なること、    猶婦人の根中の不浄の若し。     臊臭看難し、種々に噬食せられて、膿血流出す。  その有り様は屎尿のようであり、また醜悪なこと婦人の局所の中の不浄のようであった。その生臭さは人の目を背けさせるもので

          「帰依三法」を学ぶ(8)

          「帰依三法」を学ぶ(7)

          【仏の道:遠望・近見】 (152) 「帰依三法」を学ぶ(7)    世尊在世に、二十六億の餓龍、ともに仏所に詣し、    みなことごとくあめのごとくなみだをふらして、まうしてまうさく、  釈尊が世にありし時に、二十六億の飢えた竜が、ともに仏の所にやって来て、皆、雨のように涙を降らせて申し上げた。    「唯願はくは哀愍して、我を救済したまへ。    大悲世尊、我等 過去世の時を憶念するに、    仏法の中に於て、出家することを得と雖も、    備さに是の如くの種々の悪業

          「帰依三法」を学ぶ(7)

          「帰依三法」を学ぶ(6)

          【仏の道:遠望・近見】 (151) 「帰依三法」を学ぶ(6)     希有経に曰く、    「四天下及び六欲天を教化して、皆 四果を得せしむとも、    一人の三帰を受くる功徳には如かず。」   希有経には次のように説かれている。 「たとえ四天下(須弥山を中心とする東西南北の全地上世界)と六欲天(天上の欲楽世界に住む六種の天人)を教化して、皆に四果(一切の煩悩を断じた阿羅漢)を得させたとしても、それは一人の人が三帰戒(仏陀 仏法 僧団に帰依する戒)を受けた功徳には及ばない

          「帰依三法」を学ぶ(6)

          「帰依三法」を学ぶ(5)

          【仏の道:遠望・近見】 (150) 「帰依三法」を学ぶ(5)            「帰依三法」功徳を説く                    世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。    衆生いたづらに所逼をおそれて、山神鬼神等に帰依し、    あるいは外道の制多に帰依することなかれ。    かれはその帰依によりて衆苦を解脱することなし。   このように 世尊(釈尊)は、すべての人々のために教え示された。世の人々は、徒に窮迫することを怖れ、山神や鬼神等に帰依し

          「帰依三法」を学ぶ(5)