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今年一番の草野球の思い出…だとおもうよ。こんなにたくさん書いたから[インスタから転載]

12月初旬のこと。都内にある駒沢公園の硬式野球場で草野球をする機会に恵まれた。

ちなみに、一般的には「駒沢オリンピック公園」とか、高校野球では「都営駒沢球場」などとしばしば呼称されるが、地元の人間はいずれもそんな言い方はしないので、東京の世田谷or目黒付近の出身かどうかはこれでわかる裏話あり😁

まあ、それはいいとして、昨年、大掛かりなリニューアル工事をして、内外野とも人工芝となり、室内ブルペンの設置や観客席も大幅に増設され、完全に別物の球場に様変わりしていた。

とはいえ、オイラにとって、硬式野球場としてはもっとも馴染み深いところに違いはない。


最初に中に入ったのは、記憶にある限り、小学生のリトルのときの練習試合でベンチに入ったときだ。

そのときの相手は、世田谷東(現在、全国レベルになっている世田谷西ではない。「東」ね。確か中学はリトルではなくポニーに加盟していたんだよな)で、小学校で同じクラスだった高橋和司くんと弟の淳司の兄弟や、低学年のときに同じ水泳教室だった戸井田くんとかがいて、整列時にお互いニヤニヤしながら挨拶をした記憶がある。

ただ、オイラ自身はこのときの6年生チームではBチームだったので、ベンチには入れさせてもらっていたけど、1000%出場の可能性はない立ち場だった。

だから、端から観客気分だった。
この練習試合では、たまたまお父さんが観戦に来たとかなんとかで、本来Bチームであるはずのキャッチャー……たしか名前は上野くんだったと思うが、その子がスタメンで起用され、仲間内からすれば“なんで?”と顔を見合わせたんだよな。
試合が始まると、案の定、上野くんはプレーボール直後からパスボールを連発。その回で即交代となった。

オイラが入っていた目黒東リトルでは、普段は多摩川の日本ハムのファームグラウンドの脇にある少年用のグラウンドを複数使用していた。ただ、どこもスペースが狭いし、小学生とはいえ硬式ボールを使用しているため、普段の練習やチーム内の試合ではホーム付近に鳥かごを置いて、ファウルボールが四散しないようにしていた。
その環境が当たり前だったのでこの日まで考える余地がなかったが、ホームベースの後ろが広いちゃんとした球場でパスボールを連発したらまったく試合にならなくなってしまうということ、何度も拾いに走るのがメチャクチャ惨めであるということをはじめて知った。

しかも、このときは上野くんが退いたあと、普段はAチームのレギュラーキャッチャーだった三海くんもなぜかパスボールを連発してしまい、野球における負の連鎖の怖さについても、身を持って知らされた。

もっとも、この当時は外野手だったし、キャッチャーについては父親がメチャクチャ反対していたので(その理由はまた今度。それだけで一本書けるので)するつもりもなかったから、完全に他人事である。
「上野くんも分不相応の試合にいきなり出さされてかわいそうになぁ」と哀れんでいたほどだったな。

それが、まさか、自分がその5年後くらいに高校でキャッチャーとなり、上野くんばりにパスボールを連発するほど下手くそであったことを知って悩むことになるとはねぇ😣
このときは微塵にも思っていなかったよ。


んで、次にこの球場での思い出となるのは、その高校生になってから。

1年の夏は、上級生のチームが東東京大会ベスト8をかけて東海大高輪台の左腕・小島圭市(のちに巨人、引退後はメジャーリーグ球団のスカウト等)と対戦し、観客席で応援団をしたときである。この試合は、初回の失点のみで安打数は上回りながら0対2で敗れた。

2年の夏は、2回戦〜4回戦までこの球場で、4回戦では当時シード校だった豊南相手に中盤までに打線が繋がり7点を奪取。終盤猛烈な追い込みにあうも、かろうじて1点差で逃げ切って2年連続ベスト16に進出した。

このときのオイラも100万%出場の可能性がないブルペン捕手である。思い出としては、ベンチでヒジ痛に苦しみながら投げていたエース投手の先輩のため、チェンジのたびに氷のうを用意して先輩のヒジにあてていたことと。そして、終盤に上級生の野手を使いきってしまい、同期のなかでは唯一の外野手ながら普段は代打要員で、守備は苦手だった同級生が守ったことのないセンターの守備につくことになり、(ヤバい! センターに飛ぶな!)という気持ちと(飛んだときの姿を見てみたい)という気持ちが交錯してわけわかんなくなって、密かにニヤニヤしながらみていたことかな😁 結局、打球は飛ばずに済み、シード校に勝ったこととかよりも「飛んでこなくて良かったなぁー」「いや、オレは飛んでミスしろって思った」「おい、ふざけんな!(当人)」などと、試合後、同期の間でヤイノヤイノしたのがクライマックスだった。

そして、自分の代のときは、一転してチームが弱小化してしまい(なんせオイラが一応レギュラーキャッチャーながらも下手くそ過ぎて、ひとつの下の後輩に一時期はポジションを明け渡していた時期もあったから😅)、初戦コールド負けして高校野球を終えたのもココ。
しかし、オイラは大会直前に風邪が悪化して脊髄に菌が入る髄膜炎で入院してしまい、試合前日に医者の反対を押し切って退院し、それが精一杯だったとはいえ、またもやベンチだった。

その後も、母校の練習や練習試合、3年生の卒業試合などで度々訪れて中に入っているし、そもそも、駒沢公園自体、小学校1年生のときにクラスメイトの小松崎くんと凧揚げに行って帰りが19時頃になってしまい、その間、親同士が大騒ぎで捜索していて迷惑をかけてしまったり、大掛かりな避難訓練や遠足、幼少の頃からも日曜日に家族で遊びに行くなど、とにかく、数多く関わってきた場所だが、不思議とこの球場のフィールドでプレーしたことは一度もなかった。

その意味で、今日は特別だったし、最初のプレーがピッチャーになるとはまさかのめぐり合わせで、感慨深いものがあったのだが……。

そんな感傷なんか正直どうでもいいわ! 的に世の中はキビシく、今までどおりストライクがまったく入らず。
当初の予定から一人引っ張ってもらっても四球が続いて交代となった。

やっぱり、ココはいい思い出がないな、と舌打ちしたい気分になったが、ふてくされていても何も好転しない。

ベンチには、チームメイトの奥様でかつでソフトボールでオリンピック代表のエース級投手だった方がいて、「頭が突っ込んでいるのと、左のヒザが早くに外側へ向いてしまうのを解消して下半身を安定させないと、指先感覚だけでは難しいと思います」という、ありがたいアドバイスも頂いた。
ある程度気にはしていたことだが、それを再度明確に確認できたのは大きい。

冬場にもう一度基本的な投げ方から模索&作り直して、1イニング限定投手としてまともな投球ができるよう目指していこう!

人工芝に改装されて最初に入った機会に生まれて初めてフィールドでプレーができたのもひとつのよき区切り。人生の終盤は相性の良い球場になるといいな。

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