真実とは

嘘と現実どちらが残酷かと聞かれれば、真実の方だと私は思います。

例えばマジックのタネを知った時、サンタクロースの正体を知った時、幸せな夢から覚めた時。それは魔法から手品に、サンタクロースから両親に、夢から現実に成り下がる。ファンタジーからノンフィクションへと引きずり込まれる。幸から不幸へと突き落とされる。真実の残酷さを思い知る。
私達はそれが嫌だから、タネの知らない新たなマジックを常に探し、非情な残酷な現実から逃れようとする。同じことを繰り返しても、何度でも、何度でも。

私の好きな言葉があります。

「真実とは、それがより残酷で在るほど知る価値があるものである。」

文面通りに意味を捉えるのであれば、「残酷な真実は知る価値があるものだから、真実を知ることを恐れるな」といったところでしょうか。
しかしそれは間違いです。
この言葉の正しい解釈は、「残酷な真実を知ってしまっても、それは知る価値があるものだったのだと思ってめげずに頑張りましょう」です。
この意味が分かりますか?
つまりそれは、この言葉が残酷な真実を知ってしまった者を励ますために作られたものであり、そしてそれはつまりこの言葉が別段「残酷な真実は知る価値がある」という事実に基づくものではないということであり、つまりこの言葉は単なる口から出まかせであり嘘なのです。
どうです、とても残酷でしょう?
残酷な真実を知ってしまった者を励ますはずの言葉が、真実の残酷さを如実に伝えてしまっている矛盾こそが、私がこの言葉が好きな所以です。

何故後者の意味こそが真の意味であると言えるのか、という疑念に対する答えは簡単で、これは私が作った言葉です。自分の言葉を好きになってはいけないというルールはありませんよね?真実なんてどれもそんなもんです。
もし先ほどの言葉がどこかの偉人や小説家の言葉だと思い込んだ方がいるのであれば、あなたは先入観や固定概念の強い騙されやすい人間であるといえるので、詐欺には十分気を付けてくださいね。
まあ、人類が現在までに築き上げてきた大量の語彙のプールの中には全く同じ言葉がもしかすればあったのかもしれませんが、私はそんなことは知りません。

嘘に残酷さは存在しません。残酷なのはただただこの現実だけなのです。嘘とは現実や真実の容れ物であり、変哲のない箱なのです。ここに1つの箱があるとして、中にはあなたの大嫌いな虫が入っています。あなたは箱を開けた途端悲鳴をあげ、酷いと喚き散らすでしょう。この時嘘が嫌いだとのたまうあなたは「私の大嫌いな虫を箱を使って隠したことが嫌」と言うが、剥き出しのまま大嫌いな虫を渡されたところで、あなたは同じように悲鳴をあげるでしょう。あなたが嫌いなのは箱ではなく虫なのです。中身がプレゼントだったら嬉しいでしょう?その時あなたが嬉しく思うのは別に箱ではなくてプレゼントの方でしょう?

得意げに語っていますがこれはただの妄想です。嘘が残酷でないとは限りません。嘘は残酷でないとそれっぽく説明しようとしただけです。でも私は、皆さんが言うほど残酷ではないと思います。真実が崇高なわけでもないとも思います。私達の知る全てのものが嘘だとしても私は驚きません。残酷だとも思いません。私達の知る全てのものが真実であると証明出来る人はいません。証明する必要もないと思います。嘘と、真実とを区別する方法も知りません。どれだけ考えても分かりません。しかし真実とは残酷だと思います。これはなんとなくです。根拠はありません。あらゆるものに根拠はありません。皆それっぽく言ってるだけです。それっぽく言って、それっぽく理解したつもりでいるだけです。あなたは私が何を言ってるか理解出来ません。私も理解していません。いつか真実を知る時が来るとして、その真実が残酷でないものであることを祈りましょう。その時が来るかは分かりません。分からないことを考えるのはやめましょう。分からないことを考えるのはやめて眠りましょう。良い夢を見れますように。おやすみなさい。

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