見出し画像

俺も羊飼いになれるように努力する

サミュエル・L・ジャクソン演じる殺し屋が観たい

もう1年前くらいになるだろうか。サミュエル・L・ジャクソン演じる殺し屋が、チーズバーガーをスプライトで胃に流し込み、聖書を暗唱しながら椅子に座った白人を始末する動画を見た。当時の僕はそれが『パルプ・フィクション』という映画の切り抜きであることも、そのバチバチにイケてるアフロの殺し屋が若かりし頃のサミュエル・L・ジャクソンであることも知らなかった。

サミュエル・L・ジャクソン演じる殺し屋が観たい。

あまりにピンポイント過ぎる欲求に駆られて、久しぶりにTSUTAYAに行った。レンタル期限はとうに切れていた。
パルプ・フィクションを持ってレジに行き、レンタル登録をお願いした。登録とレンタルの会計を一緒にしてくれたり、クーポンをおすすめしてくれたりと、店員さんはとても丁寧に接客してくれたのだが、久しぶりに外に出た僕は完全にテンパってしまい、勢いで2泊3日でレンタルしてしまった。明日から塾のテスト期間だというのに、明後日の昼までに急いで観なくちゃいけない。

塾の授業を終えて家に帰り、すぐに映画を観ることにした。パソコンの電源を入れて、DVDプレーヤーを繋ぎ、部屋を真っ暗にする。別にこだわりがあるわけではないが、雰囲気は大事だ。

以下、映画のネタバレを含みます。

一目惚れして買ったTポイントカード




よく喋る殺し屋

冒頭で述べたシーンは映画の序盤の場面だった。ジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)とヴィンセントはこういう役ですよという感じのシーンだ。
2人は殺し屋で、マーセルスというボスに雇われて裏切り者を始末し、奪われたアタッシュケースを取り戻しに来ていたのだ。
潜伏先のアパートの一室に押し入ると、ターゲットの3人はハンバーガーを食べてくつろいでいるところだった。ジュールスはにこやかに、しかし一切体勢を変えることを許さず、机の上のハンバーガーを指さして言った。
「一口もらっても?」
もちろんノーとは言えない。どうぞと言われるとジュールスはハンバーガーをうまそうに食べた。何口も食べた。ずいぶん小さくなったハンバーガーを机に放り捨てると、その隣のカップの中身を尋ねて言った。
「そのスプライトでさっきのハンバーガーを胃に流し込んでも?」
怯える相手にどうぞと言わせ、これまたうまそうにスプライトを飲んだ。というか、飲み切った。

ただハンバーガーを食べてスプライトを飲んでいるだけなのに、部屋の中に殺意が充満していく。恐怖に耐えかねた1人が謝罪を始めると、すぐさまソファに寝転がっていた別の男を撃ち殺して言った。
「すまん、気が散ったか?悪い、続けてくれ。悪気がどうとか言ってたな。」

ここからジュールスの声色は怒気を帯び始める。焦った相手に対して意図の読めない質問を繰り返し、相手が思わず聞き返した瞬間肩に向けて発砲する。
それは拷問ではなかった。拷問は情報を聞き出すことが最終の目的だ。ジュールスたちがやっているのは純然たる粛清だった。

そして、聖書のシーンが始まる。

エゼキエル書第25章17節
心正しい者の歩む道は 心悪しき者の利己と暴虐によって行く手を阻まれる
愛と善意を持って 暗黒の谷で弱き者を導くその者に神の祝福を
彼こそ兄弟を守り 迷い子たちを救う者なり
私の兄弟を毒し滅ぼそうとする者に 私は怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす
私が彼らに復讐をなす時 私が主であることを知るだろう

殺し屋というのは、素性を知られないよう隠密行動を好み、できる限り暗殺という手段によって静かに依頼をこなすものだと思っていた。相棒のヴィンセントはジュールスが喋っている間ずっと煙草をふかしているだけなので、彼はまさにそういうタイプの殺し屋なのだろう。
しかし、ジュールスのように、標的の前で飲み食いをし、自らの思想を大っぴらにして、これほどまでに感情的に人を殺す殺し屋はあまりいないように思った。

危険な男であることは間違いないが、それと同時に強烈な“人間性”を感じさせるシーンだった。
そして、この2人の性格の違いが、後に命運を分けることになる。

神を感じたかどうか

部屋にいた3人を始末した後、バスルームから4人目が突然現れてジュールスとヴィンセントに向かって銃を乱射した。しかし、銃弾は奇跡的に全弾外れ、4人目の男は返り討ちにあって殺された。

ジュールスは、弾が1発も命中しなかったのは奇跡だと信じ、これを機に足を洗うと宣言した。一方、ヴィンセントは、たしかにあぶないところだったと認めつつも、これは偶然であって、そんなことを理由に今の仕事を手放すのは馬鹿馬鹿しいと切って捨てた。

ジュールスは、大事なのは弾が全弾外れたことではなく、ジュールス自身が神を感じたかどうかであると言った。
僕はいわゆる無神論者だ。正月には初詣に行くし、賽銭も投げるし、おみくじも引くし、絵馬に「司法試験合格」と書くだろう。しかし、それらはすべて季節のイベントとして楽しんでいるだけであり、本気で神の存在を信じたり、あるいは神になんとかしてもらえると思っているわけではない。
だから、ジュールスのこの考え方はすごく腑に落ちた。神がいるから信じるのではなく、神を感じたから信じるのだ。信仰心の発信地は、あくまでジュールスの心の中なのだ。

ジュールスが足を洗うと決心した日の朝、2人はファミレスで強盗と遭遇してしまう。
一時は銃を向けられアタッシュケースを奪われそうになるが、ジュールスが機転を利かせて立場が逆転し、ジュールスが強盗に銃を向ける体勢となった。

そして、ジュールスは先述のエゼキエル書第25章17節を再び暗唱して聞かせた。しかし、先ほどのシーンとは違って、その声色は一切の殺意を感じさせない、諭すような優しいものだった。

人を殺す時 俺はいつもこの文句を言って聞かせた
よく意味は考えず 殺す場にふさわしい冷血な文句に思えたからだ

今朝色々あって 初めてその意味を真剣に考えた
貴様が心悪しき者で 俺が正しい者 銃を構えてるあいつ(ヴィンセント)が悪の谷間で俺を守る羊飼い
あるいは貴様が心正しい者で 俺が羊飼い 世の中が悪で利己的なのかも

そう考えてえ だが真実じゃねえ

真実は 貴様が弱き者 俺が“心悪しき暴虐者”だ

だが努力はしてる
羊飼いになろうと一生懸命努力してる

そう言い終えると、ジュールスは撃鉄を倒し、銃を下ろして、強盗に店を去るよう言った。
まだボスに話を通してはいないが、ジュールスが殺し屋から足を洗った瞬間だった。

俺も羊飼いになれるように努力する

本作は3つのストーリーがオムニバス形式で展開されるが、まあ人がバッタバタ死ぬ。しかもロクな死に方はしない。ジュールスの元相棒ヴィンセントも、ジュールスが足を洗って(おそらく)初めての仕事に失敗し、ターゲットに返り討ちにされ蜂の巣になって死んでしまう。

思うに、死んだ人物の共通点は「他者を一方的に虐げた」ことにある。しかし、いわゆる勧善懲悪ものなのかというと、ジュールス始めガンガン人を殺しまくっている悪人も生き残っているので、そこまで単純に割り切っているわけではない。
生き残った人物の共通点は、「他者を許すことができた」ことだ。ジュールスは強盗を許したが、ヴィンセントはジュールスに止められなければ強盗を射殺していた。この決定的な差が、殺し屋から足を洗ったジュールスと、ターゲットに蜂の巣にされたヴィンセントとの命運を分けた。
唯一の例外は、冒頭で述べたシーンでのジュールスとヴィンセントだ。彼らは裏切り者たちを一方的に粛清したが、その後4人目の男に撃たれて死ぬことはなかった。つまり、あれはこの映画の中ではたしかに“奇跡”であり、2人にとってのターニングポイントだった。

しかし、この映画をスピリチュアルな説教映画だとは思わない。なぜなら、許すという行為は相手のためにする行為ではなく、明日からも生きていかなければならない自分のためにする行為だからだ。

僕がこの映画を気に入っているのは、ジュールスが徹頭徹尾自分のために選択をしているところだ。それほど好きでない殺し屋の仕事を聖書を暗唱しながら遂行し、奇跡を感じたら相棒にいくら反対されても辞める意思を変えず、そのために自分の命を狙ってきた強盗を許す。
神やボスのためではなく、自分のために生きている。自分を大事にしているからこそ、他者を許すことができたのだと思う。

僕は結構根に持つタイプだ。大袈裟でもなんでもなく、本当にされて嫌だったことは何年経っても覚えている。もうこれはそういう性質なので、直そうとするのはずいぶん前に諦めた。
しかし、いささか虚しくはある。忘れてしまうことができれば、さらに言えば自分の中で許すことができれば、これから先の人生で嫌な思い出に苛まれることも少なくなるだろう。
もちろん、世の中には本当にどうしようもないやつがいて、そんなやつは決して許されるべきではないと思う。
しかし、それほどでもないような小物のことは、許してやろう。その方がこの先の自分のためだ。

俺も羊飼いになれるように努力する。
まずはアフロにするところから始める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?