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「終わり」が近づいてきたと感じたとき

 軽い脳梗塞で病院に担ぎ込まれてから、数年に1回は、入院していた父です。大腸癌もありました。「人間長く(なごう)生きていたら、なんかあるわいな」で全てを笑えるところが父の良いところだなあと思いつつも、家族はそれなりに大変です。偉いなと思ったのは、何か病気をすると、少しは生活を改めることで、タバコもやめ、お酒も少しずつ減らしていきました。でも、散歩中に転んで大腿骨を骨折してからが、衰えていくスピードが速くなったように思いました。

 人間、足腰が弱ると、だんだん全身的に弱っていきます。ライフスタイルを変えざるを得ず、食事量も減って、なんとなく、食べる力そのものも衰えていって、動物は歩けなくなったら、死期が近づくのと似ているような気がします。移動ができなくなると、動物なら食べられてしまうこともあるし、餌が手に入れられなくなることもあります。実際、実家では災害時の避難はどうするのー?という問題がついて回りました。台風は、わかっている災害なので、早めに手を打てばいいのですが、地震などは予測できません。1995年の大地震以降、実家あたりは、特に大きな地震もなく、幸運だったと思います。

 80代の終わりには、フレイル予防どころか、フレイルの道を転がり落ちました。なんとか戻っていくための工夫をするより転がり落ちる方が速くなったと思いました。大腸癌で排泄も大変になりましたが、動きがゆっくりで筋力も落ちました。それでも、「まあなんとかなるわな」と言いつつ、安全な範囲で散歩をするとか、デイケアで楽しんでくるとか、そういう楽しむ、ということを大切にしていたことはとても良かったなあと思います。何よりも自分が好きな海が見える家に住んでいることはとても幸せなことだったのでしょう。

<参考>フレイルに関する日本老年医学会からのステートメント
https://www.jpn-geriat-soc.or.jp/info/topics/pdf/20140513_01_01.pdf

 90歳に入るとさらに弱っていくのがはっきりしてきました。脳梗塞等の発作の際に、「ご高齢なので、急に、、、ということはありますよー」と主治医の先生からご説明をいただきました。それとは違って、これから終わりの道をいくのだなあと私が感じたのは、誤嚥性肺炎の繰り返しです。お口のフレイルともいえますが、だんだんと咽せるようになり、食事に気をつけるようにしたとしても、難しくなっていきました。軽い脳梗塞の再発で入院している間に発熱が起きるようになり、なかなか難しいなあと感じました。お口のケアとともに食べる訓練をするとしても、いろんなバランスが悪くなってきます。この時期に、これが寿命なのだろうなあと感じ始めました。

 それでも、父の頭は大変はっきりしていて、脳梗塞の後遺症で手が少し動きにくくなっていても、老眼鏡をかけて、新聞を端から端まで読みました。以前なら、勤務していた学校の生徒さんがお見舞いに来てくださったりしていましたが、父の教え子もすでに高齢者の仲間入りの時期。また、父の友人たちのほとんどが先に旅立っていきました。父にとって教えることは天職だったようで、行政の仕事になっても教えることを手放しませんでした。教えるためにはどうしても学ぶ材料が必要です。文字を書くのも大変になっても、読むことが日常であったことが、頭をはっきりさせていました。

 そして、毎回の入院で、必ず看護師さんリハビリさん、に愛されキャラになりました。治療に協力的で、いつもニコニコのおじいさんなのです。この好好爺モードは、処世術として大切なものだったように思います。歳を取ってからの失敗は色々とありましたが、あまり悲観的にもならずに過ごしました。考えてみれば、最近の入院事情は昔と違って、家族にあまり負担を強いることがなくなりました。洗濯物などは出ますが、院内にコインランドリーもありますし、売店だってあります。気兼ねせずに利用できる面会室やラウンジなど、リッチな医療機関でなくてもなんとかなります。でも、療養となると、また、考えを変えていかなければならないことがあります。そろそろ、終末期をどうするか、少しずつ、考えなくてはいけないなあと思い始めたのでした。


<写真は、海沿いの家から見える夕暮れ。そろそろと思い始めた日に見た、層をなす夕焼けの空が、人生を示唆しているような気がしました。弱っていく後の最後の輝きのようです。海にも映り燃える様な赤色。ああ、綺麗だねえ、って、父の声が聞こえるような一枚。>

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