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「ある、夜のこと」

前回のnote、「CODAの娘」を書いた夜、なんだか泣けて泣けて、隣にピタリと寄り添ってくれた15歳の長女相手に、思いの丈をぶちまけるってよりは、浪花節みたいに滔々と唱えた。結構長い時間に渡って。
「じーじーちゃんとスーちゃんの子どもに生まれてきてほんとうによかった」と、アホみたいに素直な気持ちに包まれたのは、きっとご先祖様のご配慮だろうな。

だってその夜は沖縄のお盆だったから。近所からはエイサーの音が聞こえてきて、またそれも、じゅうぶんに涙を誘うものだった。
店には友だちが大勢来ていて、みんな踊っていた。

母のことを書くと、自分がとても癒される。そのことが今ははっきりとわかったし、理由も明確になった。
そのように長年の謎がつまびらかになると、「おとなになるのもなかなかいいものだな」と思う。


「名前のない料理店」

昨夜は久しぶりに「名前のない料理店」の小島シェフ、通称「大将」の料理をいただいた。

大将の料理も、普段はアクセスしないような深いところへいざなってくれる、根源的な装置がある。

「この赤ムツは、この間の台風6号を経験した魚です」
たちまち海の、波がバシャバシャと飛沫をあげ、ぐるんぐるん轟く様子が目に浮かぶ。海底でじっと過ぎるのを待つ赤ムツと自分の息遣いが重なる。
「いのちのつながり」、ほんとうのことだ。あまりに頻繁にあちこちで使われているので、なんとなく小っ恥ずかしく感じてた言葉だけど、否、ほんとうのことだ。
皮目がパリッパリ。ソースは赤ムツのあらを煮込んだもの。プチプチのコリアンダーシード、大葉の新芽は葉がまあるい。

お産を何度も迎え、肉がすっかく硬くなってしまって肉牛としては市場では価値がつかないような雌牛を、丹念に下拵えして、然るべき期間を掛けて熟成させ、風味を活かすため塩ではなく、白菜を発酵させたお酢をまわしかけながら、ゆっくり焼いたステーキ。
噛みしめ噛みしめ咀嚼するわたしは、草を食む牛だ。牛生をまもなく全うする雌牛の姿もいっしょとり込んでいます。

トビイカイカ墨の和え麺。
おじいとおばあが昔ながらの丸木舟で漁をしている。なんと釣るのはおばあ、それを速やかに袋に詰めるのはおじいの仕事なのだとか。まるで昔話の世界だ。
国頭の小麦と、炭火焼きで出る木灰で作った平打ち麺に、トビイカの墨がくまなくからめてある。
「これ、なんだかねー」と大将と交友のある近所の畑人のおじいが収穫した茗荷も添えてあり(笑)、合わせて伊江島のピーナッツもパラリ、なんと香ばしいことよ。
素晴らしかった。これぞ大将の沖縄料理!玉城デニーさんに食べてもらいたい!

「水っぽくて、味も淡い島南瓜を、干したり焼いたりせずに、そのままスライスしただけです」
島南瓜、である。わたしもこれまでさんざん凝縮、濃縮してきたけれど、大将の「そのままで」というところに島南瓜への解放を感じた。
添えたソースは自家製チーズで出たバターミルクをベースに、玉ねぎのみじん切りを合わせたタルタルみたいな感じ。はかないほどに薄く切られた南瓜は、シャクシャクほんのり甘く、すうっと繊維が感じられる。

金目鯛はここ数年、沖縄近海でも漁れるようになったおかげで、鮮魚を扱う道の駅でも見かけるようになった。
大将は漁師さんといっしょに漁に出て、鮮度を保つためすぐに神経〆を施し、下処理をした後、熟成へ。
満を持した金目鯛を軽く炙り、自家製カラスミの粉末と、またもや沖縄で採れたカボス(なんと珍しい!)をささっとさり気なく添えて。島ニンニクのこっくりしたソースがよく合う。

新じゃがとガルム。まさかの新じゃが(早い、早過ぎる)は自家製チーズを合わせてドフィノアに。アイゴの稚魚、「スク」の塩漬けを叩いたものが添えてある。内臓の苦味が旨味に。なるほどガルムというわけだ。

デセールの焼き茄子のアイスクリームもびっくりするほどの美味しさだったし、パイ生地の油分は、「菜種油をシート状に冷凍させた」ということだった。

夢のような夜だった。

いち夜明けて、まだ余韻のなかにいる。

(じゅんちゃんと長女は発熱。土曜日、お店は臨時休業でした)


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