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田沢磨崖仏

宮城県亘理町にある田沢磨崖仏は、通称「岩地蔵」と呼ばれ、阿武隈川に突出した岩に刻まれており、古墳時代末期の横穴墓群のうちの4基を利用した磨崖仏である。製作時期は鎌倉時代から室町時代初期のものと思われ、4体の地蔵尊と3枚の板碑が刻まれている。

磨崖仏は阿武隈川河畔の街道から外れた場所にあるが、県道亘理村田線に標識があるため、迷わずに到着できた。

この場所は古来、「稲葉の渡し」といわれたところで、阿武隈川を渡る交通の要衝だった。磨崖仏はこの渡しの安全を願うことと深い関係があったものと思われる。

磨崖仏から阿武隈川を臨む

この「稲葉の渡し」の対岸には県道仙台岩沼線があり、道沿いには藤原実方の墓や佐倍乃神社(笠島道祖神社)、笠島廃寺跡など数多くの史跡があるのも興味深い。

田沢磨崖仏は川に突出した形で彫られているため、土手を降りて川岸ぎりぎりまで行く必要がある。足を滑らせると阿武隈川に真っ逆さまなので足元が悪い日は行かない方が良いだろう。また、可能ならば複数人で行ったほうが、何かと安心できると思う。

田沢磨崖仏は、4窟に4基の地蔵尊と3基の板碑からなると案内板に書かれていたが、残念ながら3窟、3基の地蔵尊と2基の板碑しか視認できなかった。

田沢磨崖仏全景

下の写真の磨崖仏は、土手の上から続く階段をくだったところにある磨崖仏。風化がかなり進んでいるが、台座にはわずかながら彫刻が残っている。

中央部の比較的広い岩窟にある2基の地蔵尊と板碑は保存状態が良いものの、間近で見られないのが残念だった。

田沢磨崖仏については古くから存在が知られており、『奥羽観蹟聞老志』(佐久間洞巌が4代藩主伊達綱村の命を受けて享保4(1719)年に完成させた地誌)や『封内風土記』(田辺希文が7代藩主伊達重村の命を受けて安永元(1772)年に完成させた地誌)にも記されている。

他にも、日光東照宮の眠り猫などを手掛けた左甚五郎が船を待つ間に彫ったとか、飛騨の匠の作とする言い伝えが残っているのも面白い。当時は、そうした言説が流布されるほど見事な出来栄えだったんだろうなあと想像が膨らむ。

【所在地】宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢宮原34

【駐車場】あり

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