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裏山の石碑

祖父から聞いた話。

祖父の生家(以降、「本家」とする。)の裏山には城跡があったと伝えられている。

城跡といっても特に史跡として指定を受けている訳ではなく、言い伝えとして残る城跡で特段の遺構もなく、強いて言えば土塁のようなものがわずかにある程度だそう。

祖父は幼い頃から裏山には登るなと曽祖父や高祖父から聞かされていたが、毎年お盆になると高祖父が神職の正装をしてその裏山に登る姿を目にしていた。
ある年のお盆、祖父は高祖父に連れられてその裏山に登った。

裏山へ続く道を登っていくと、開けた場所に数基の古びた石碑があった。
石碑の前には注連縄が張られており、高祖父は石碑の前に供物を供え祝詞をあげた。

高祖父は、「ここには昔お城があって、この石碑はお城が戦に敗れて落城した際に自害したお姫様とその従者の墓と伝わっている。真偽はよくわからないが、先祖が代々大切に祀ってきているからこうして祀っている。」と話してくれた。
ただ、高祖父の話だと祀ってはいるもののあまり近づくのは良くないと言われており、それで高祖父もお祀りする時以外は近づかないとのことだった。

それから月日は流れ、祖父の生家の近所にあったA家が事業に成功し、屋敷地を広げようという話が持ち上がった。
A家の当主(以降、Bとする。)は、その場所はやめた方が良いという高祖父の忠告を無視してその石碑があるあたりを畑にした。

その際、特に供養もせずに石碑を動かし、以後も粗末にしていたとのこと。

その石碑のある場所がA家のものとなってからは、誰もその石碑を祀らなくなってしまっていた。

それからしばらくして、A家が災難に見舞われる。

Bには2人の息子がいたが、跡を継ぐ予定だった長男が突然事故で亡くなり、県外にいた次男が跡を継ぐために戻ってきた。そんな折、Bの妻が急死してしまい、1年で2回葬式を出すことになった。
さらにその翌年、次男が原因はわからないが自殺してしまった。Bには子がいなかったため、とうとうA家にはBだけが残った。
その後は何事も起こらなかったというが、A家はBの代で途絶える形になった。

偶然かもしれないけれど石碑を粗末にしたことで障りがあったのではないかと、祖父は話してくれた。

これは全く関係ないかもしれないけれど、郷土史をながめていて、本家から裏山に続く道の途中に庚申塔があることがわかった。
なんでそんなところに庚申塔を立てたのかはわからないが、家屋敷と裏山の境界を守る役割を担っていたのではという妄想をしている。

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