梱包された劇(ドラマ)

 今年の夏、私の父が死んだ。米寿の誕生日を過ぎて幾日か経ったある午後に彼は自室でポックリ逝った。体だけは丈夫な男だったから、彼が危篤であるという知らせは寝耳に水であった。妹からの電話を受けて私はすぐさま故郷へ赴いたが、時すでに遅し。着いて和室を覗いてみれば父の顔に白い布が被せてあった。妹は同じく純白のハンカチーフを片手にすすり泣いている。私より先に妻がその場で泣き崩れた。閉め切られたカーテンの隙間から光の帯が垂れてきているのを、私はただ茫然と眺めていた。額を熱い汗が滑り落ちていくのを感じた。
 

 葬式は滞りなく行うことができた。というのも丁度3年前に私は母を亡くしていて、細かな雑事は老いた父に代わって執り行った経験があったからだ。妹とは近いうちに此処へ戻って遺品の整理でもしようという風に約束をして、お互い自分の家へと戻った。東京の会社では仕事関連の資料の山がデスクに二つほど築かれていて、私の帰りを待っていた。
 

 冬が来た。今年も暮れるという頃に妻と実家へ向かった。父の遠い親戚で、また良き友人でもあった近所の御夫婦が厚意で時おり部屋の掃除をしてくれていたのもあり、その家は随分と小ざっぱりしていた。これならすぐにでも終わりそうだと、私たちは喜んだ。後から妹も駆けつける予定だった。
 

 作業は着々と進んでいた。妻には二階を任せて、私は一階を担当していた。大体の整理を終えた私は最後に残った和室へ進んだ。まだ日も高かったので、電気もつけずに作業していた。黙々と片付けていれば日は段々と落ちてきて、部屋は次第に陰に呑まれていく。死んだ両親が、喪黒の縁の中で、陰気な視線を此方へ投げる。電気を付けに行こうかと思った矢先、押し入れの奥にひっそりと段ボール箱が仕舞われているのに気付いた。
 

 箱にはしっかりとガムテープで封をしてあった。その上には灰色の埃の層が薄っすら出来ている。少し私は興味を惹かれたので慎重にカッターナイフで封を切った。中には古ぼけたトランジスタラジオやクラシックのレコードのようなガラクタがぞんざいに詰め込まれていて、その奥底に、笠松の模様があしらってある黒色の文箱があった。文箱を持ち上げて軽く耳元で揺すれば紙の擦れ合う音がする。私は躊躇なくその蓋を開いた。
 

 開かれた瞬間、中から花のような薫りが溢れた。それは夥しい数の、若かりし頃の私に宛てられた手紙である。百日紅を思わせる甘やかなその香りは、この部屋を隅々まで満たす濃厚な埃の中で、鮮烈なコントラストとなった。封印した遠い過去が一気呵成に襲いかかってくる。送り主の女は華奢な肩をしていて、細い眉に水晶玉のような澄んだ瞳で此方を見ている。そして寂しげな、それでいて清しさを湛えた表情をしていた。頭の中ではブラームスの交響曲のあの3楽章が、甘く憂鬱なあのメロディが響いている。

 気づけば文箱を腕に抱き、私は畳の上で臥せっていた。この部屋で一度だけ、彼女をこんな風に抱いて寝たことがある。別れたあの日の前の晩である。

 妻が私を探しに来た。彼女は私の背中に手をかけて黙って座っている。時おり咽ぶような声を出した。義父の死んだこの部屋で、あの日のことを思い出してしまったのだろう。私はただ、この便箋から立ち昇っていた香しい薫りがバレないかどうかだけが気がかりだった。勘づいた様子もなく、しばらくして妻は去った。日は暮れかけて、窓からは茜色した光が差し込んでいる。私の影はいつもより厭に長く、濃く、部屋の向こうまで真っ直ぐ伸びていた。文箱を前にして少し考えた。

 そして完全に日が落ちた頃、箱を元の段ボールに戻し、綺麗に封をした。「捨てる物」とペンで書き込んで、何食わぬ顔でリビングの方へと持って行った。同じく梱包を終えた妻が二階から降りてくる。このときちょうど表のドアベルが鳴って、妹がやっと来たのが分かった。妻がドタドタと玄関へ向かう。私はふぅと溜息をして、和室の襖を固く閉ざし、冷蔵庫へ缶ビールを取りに行った。件の部屋は完全な暗闇の中に閉ざされた。

 それから東京に戻るまで、私は一度もあの部屋に立ち入らなかった。

<あとがき>        

番外編の「梱包された劇」を選ばせていただきました。正直ショートショートのお作法はよく知らないのですが、頑張って書いてみました。

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