「なるはや」から考えるー言葉を用いず、人を動かすということ

日々日々の仕事をしていると、ふと耳にすることば。

「なるはやでお願い」

新入社員がどこぞのマナー研修で学ぶであろう仕事の基本(とされるきめごと)にはいつでもついて回る、納期の確認。そんな時にふわっと「なるはや」という言葉を使っていないだろうか。

とある外資系企業で務めるマネージャーの方はこう言った。

ーなるはやという指示の仕方ほど無意味なものはない。一見納期を指示しているようで一切指示していない。こちらは納期を含めて依頼したと思って業務を任せるが、受けとる方は明確な指示を受けているとは認識していないので、全く業務が進んでいないーなんてことがザルにある。だからこそ「なるはや」だなんて言葉は全くもって無意味である。

と。

確かに明文化された納期は示していない言葉「なるはや」。明文化されていないモノに意味はないのだろうか。言葉を使わず、人を動かすことはできないのか。

例えば、電車の中の優先座席での携帯電話のマナーについて。日本語では

ー優先席付近では、携帯電話の電源をお切りください

一方でそこに書いてある英語には

ーYour kindness is greatly appreciated.

とある。英語のテキストには「ここは優先席だもの。もちろんあなたは携帯電話の電源を切ってくれるんだよね!?その気持ちに感謝するよ!」という解釈が見え隠れするように思うのは私だけだろうか。

情報を受け取る側の価値観・情報を受け取った後に、本人が取るであろうアクションを固定させた(仮説)上で、その仮説を前提とした言葉を投げかける。そうすると、不思議と人間は、相手に投げかけられた仮説に従わなければ、なんだか気持ちが悪くなるのではないか。

結果として、明文化した依頼ではなく、その前提となる仮説に人は従うー(その前提を情報の受取手である本人が認識しているかどうかは別の話だが)

マクレガーのXY理論ではないけれども、人間というものの前提をどう見立てるかには正解はない。ただし、その前提の見立てに人間は従うものーだとすれば、言葉がなくとも人を動かすことは十分できるのではないかと思う雨の日の休日である。

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