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いつか話し手にまわってもいいかな

私は、人付き合いが苦手で、あまり社交的ではない。
出来ることなら、ひっそりと身を潜めていたい。
そんな自分だけれど、人の話を聞くことは思いのほか嫌いではない。
人それぞれの多様な思考や意見に触れることが面白いから。

「なるほど、人は、このような考え方をするのか。自分とは少し違うけれど、悪くはないな。」と合点したり閃きがあったりする。
自分の知らない世界をのぞき見て、新たな知識を得ることもよくあることだ。
中には理解しがたく、とうてい納得できないこともあるけれど、そんなときは、相手がこの考えに到った背景や課程などを考えてみるようにしている。それが面白く、なにより多様な思考や価値観などに触れ、自分の心が磨かれ豊かになるような気がしてならない。

豊かさへの解釈や感じ方は人それぞれだけれど、豊かな感受性と明朗で包容力のある心が大切であることは違いないと思っている。

人は、自分と違う意見を聞くと難色を示し、自分の方が正しいと主張しがちだ。
以前の自分は、そうだったように思う。
いや、絶対にそうだった。
それではいけない。
耳を塞がず、話をよく聞くことに努めたい。
お陰様で、今では少しは包容力が身についたような気がする。

そもそも、人と同じ意見ばかりであるはずもなく、まったく同じであることはそれほど無い。
だから、争いを避けるために互いに妥協点を探り、最大公約数で納まろうとする知恵が働く。
あるいは、波風を立てないように、話をそこそこにスルーする。
そうなると不平不満の芽の温床になる。

理解できなくても理解しようとする努力は尊い。
その努力や到る課程があれば、多様な見識に触れ知識を得ることもできる。それに、認め合うことができることで不平不満の芽は発芽し難くなるし、たとえ発芽しても解決の糸口くらいは見つけやすくなる。

私などは、了見が狭いのか努力はするものの、前述の理想的な話とほど遠い人生を送っているから悲しくなる。
考えが浅く努力も足りないのかもしれないと悄気込むこともあるくらいだ。

せっかく人間に生まれてきたのだから、頭脳は使わない手はないと常々思っている。
「人は考える葦である」と、かのパスカルは言った。
私は、この言葉が好きだ。
人であることの意義を教えてくれた言葉だ。(あくまでも個人的な解釈)

そんな思いもあり、オンライン(Zoom)でスモールトークから始まるカンファレンスを催したいと思うようになった。
誰でも、いきなりトークはできないだろうから、気軽に誰でも参加できるように、スモールトークから始めてみたい。

私は、社交的ではなく人前で話すことが得手ではないけれど、その反面、多様な話を聞きたいというわがままがそうさせた。

そしていつかは、話し手にまわってもいいかな。



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