嘘と宗教

 前から思っていたのだが宗教によって嘘に対する寛容度合いは違うため一度まとめたい。
 ○仏教
 嘘をつかねば仏になれぬとか嘘も方便という諺は仏教から来ている。嘘をつかねば仏になれぬは仏であっても悩み苦しむ人を救うために嘘をつくのだから善行のためには嘘をついてもよいという諺で、嘘も方便も同じエピソードから来ている。仏教の掲げる正義のために嘘をつくのはありというのが仏教の考え方だ。

 ○神道
 神道には基本的に教えはないが天探女命という神がいる。この神は占いの中で嘘をついて世を混乱に陥れる巫女を神格化したものとされ、嘘をつく巫女が脅威であると考えられていたという背景が垣間見える。ここからは私見だが、神や朝廷に嘘をつくことは悪、それ以外は善も悪もないというふうな考え方が神道の嘘に対する考え方なのではないかと思うのだ。

 ○キリスト教
 キリスト教には人類最初の嘘といわれるカインとアベルの話、イブに頭がよくなる実だと林檎を食べさせた嘘をつく蛇の話などが載っており、いずれの嘘も悪とされる。神は嘘を嫌っており、嘘はキリストのように聡明であることから離れる行為であると述べられているため嘘は固く禁じられた行為であると考えて良いだろう。また、偽善をもキリスト教では禁止しており、どこまでも心が綺麗であることを要求する宗教である。

 ○イスラム教
 イスラム教はこれまた嘘は絶対だめ(例外あり)という宗教で真実と異なることを言ってはならず、真実と一致することしか言ってはならないとされているようで知らず知らずのうちにつく嘘さえも禁止されている。イスラム教の教祖であるムハンマドは「信頼を裏切ること」「会話で嘘をつくこと」「約束を破ること」「口論で虚偽を語ること」これらの全ての要素を有するものは偽善者でどれかひとつの要素を有すれば偽善者の性質を持つと言った。しかし、人の命を助けるといったかなり重大な理由でのみ嘘は許されるようだ。

 ○ユダヤ教
 ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の神は同じとされ、ユダヤ・キリスト教はヤハウェ、イスラム教はアッラーという名の神とされる。ユダヤ教信者が守る立法のうち、第二立法の中に「ヤハウェは天地を自分の言葉で創ったので、人間は偽証してはいけない。」という文言があり、少なくとも言葉で嘘をつくことは禁止であるといえるだろう。逆に言えばその他の嘘は禁止されていないと捉えることもできる。


 さて、世界三大宗教+ユダヤ教と神道の嘘観を見てきたがユダヤ教とそれを源流にもつ宗教では嘘を固く禁じているが仏教・神道はそうでもないことがわかった。ここには原罪という考え方があるかないかという違いがあるのではなかろうか?一般に言う原罪とはアダムとイブが犯した罪を全人類が受け継ぐ罪のことである。
 踏み外したら死に至らしめるまで罪が大きくなり続ける可能性がある、例えば初めは善意でついた嘘でも常習化して悪に落ちる可能性があるという点で嘘のその一切を禁止しているのだ。
 一方でそんな事はないし馬鹿と鋏は使いよう、嘘と話術も使いようなのだとしているのが仏教なのである。この点はスピノザの善と悪についてにある

 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物におけるなんの積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。
 なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。

エチカより引用

 という事物単体での善悪など存在しないという考え方に似ている。
 神道は村人同士の嘘に関して無関心という風な印象を受ける。日本は嘘に寛容な国であるといわれているのはこのような理由なのかもしれない。宗教は信仰していなくとも文化に確かに根付いているため自分を構成する考え方は意外とそれに沿っているものだ。故に宗教目線で物事を見ると考え方の根にあるものが見えてくる。知らぬ宗教の知らぬ考え方を見ればまた一段と多くの目線を持てるかもしれない。

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