見出し画像

夫の家族が移民としてブラジルにやって来た理由とその後の奮闘記

 自分が海外に移り住り住んだ日本人なので、日系移民の方達の移住先での奮闘振りにとても興味がある。私にとって一番身近な日系移民と言えばなんと言っても夫側の家族。それぞれ(義父側、義母側)は商売や農園の経営で戦後に渡伯したとかで、その歴史の中では比較的新しい移民である、とざっくり話は聞いていた。

 伯国の移民の話といえば、橋田壽賀子さんの脚本でドラマとなり、2005年にNHKで放送された『ハルとナツ 届かなかった手紙』が思い浮かぶ。(ドラマのあらすじはこちら↓)

 このドラマは、伯国への日本移民100周年の年に当たる2008年に、“Haru e Natsu”としてこちらの放送局からもオンエアがあり話題となった。初期の日本移民の戦前から戦後にかけての、血と汗と涙の滲む苦労話をドラマにしたもの。

 身近にいる義家族やその親戚の話とは切り離して、別世界の話のようにドラマを鑑賞していたことを覚えている。移民100周年のこの年には、いろいろな記念行事が執り行なわれた。皇室からは浩宮様がご来伯されて、皇室ファンの義母に息子である夫が同伴、式典の会場に向かったことを昨日のことのように思い出す。

 最近少しばかり日系移民の歴史に触れる機会があり、おさらいのつもりで夫の祖父母、またその家族たちが伯国に渡った経緯について、いつものウォーキングの時間に夫に訊ねてみた。その時に新たに知った事実もあるので、自分の備忘録として以下書き記したい。

 ①義母側の経緯

 義母側の祖父は軍人であり、戦中は家族を帯同し韓国(義母は今でも朝鮮と呼ぶ)で暮らしていた。祖父は前線で戦う兵隊ではなく、事務仕事をしていたようだ。

 戦後は家族と共に帰国、故郷である高知県に戻ったが、祖父の兄がブラジルパラナ州ロンドリーナでコーヒー農園を営み成功しているという話を聞き、財産を携え、妻(最初の妻とは死別したので、二人目の妻。義母には継母に当たる)、結婚していた娘二人以外の子供たち(成人間近だった義母を含む5人)を連れて渡伯した。

 パラナ州はサンパウロ州に次ぎ日系移民たちが多く入植していた州だ。80、90年代に一世を風靡したポップスのグループ、カルロス・トシキ&オメガトライブのカルロスのお父様もこのパラナ州に入植された。(地元の日系のラジオ局のパーソナリティの仕事をされていたと聞いた。)

 先日、我が家にお隣の奥様が尋ねて来られた。夏の休暇の間に故郷であるパラナ州に帰省されていたということで、お土産を持って来られたのだった。イタリア系の方で、あちらでおじ様が農園を経営されているということでそこのコーヒーと......。

おじ様の農園のコーヒー、そして箱に一緒に入っていたのは。。
HACHIMITSUと書かれた、日系のお店のクッキーだった

 パラナは今もなお、日本移民の子孫が多く住む州であるということが窺われる。

 祖父も移民当時はパラナの赤土の土地でコーヒー農園を細々と経営していたそうだが、息子たち(義母の弟たち)の代で土地を処分、アパートに替えてしまったそうだ。義母を含む子供たちは成人後は求職のためにサンパウロに上京、その地でそれぞれ伴侶を得た。

 ロンドリーナの街には、今でも夫の従兄弟たちやその子孫、老後の静かな暮らしを求めて田舎に引っ込んだ叔母(義母の実妹)などが暮らす。祖父母たちが骨を埋めたのもこの地であった。(ロンドリーナの街は、サンパウロから西に540Km。)

②義父側の経緯

 義父側も戦後の移民だとばかり思っていたら、祖父(岡山出身)が戦前(太平洋戦戦争開戦前)に単身での渡伯を果たしていた。一度目はまさに「ブラジルで一旗揚げて故郷へ錦を飾る」ことが目的の渡伯だった。

 祖父は1800年の終わりの明治生まれ。1930年代始めに、サンパウロ州の日系の移住地に入植した。農園従事者では無く、日本人移民に食料品他、生活必需品を売る雑貨店を経営、それなりの富を得て数年後に帰国した。

 岡山で事業をしてその借金の返済に困っていた弟のため、そして子供たちの教育資金としてブラジルから持ち帰ったお金を使った。最初の経験で気を良くし、戦後の二度目の渡伯は家族を伴うことになった。1950年代始めのことであった。

 しかしながら、永住を覚悟しての、戦後の移民生活はなかなか厳しいものとなった。日本国の敗戦により、日本移民へのさまざまな規制があり(伯国は米国寄りだったため)、事業を展開するのがなかなか困難だった。

 余談ではあるが、戦後の日系移民のコミュニティは非常に混乱していた。ポルトガル語で入る情報を理解することが出来ず(または信じたがらず)、「日本は戦争に勝った」というデマをまともに信じる者もいたという。「勝ち組」「負け組」の間の争いが絶えず、時に血を流す争いやテロにまで発展したとのことだ。

 両親が苦労する姿を見ていた息子(義父)は、後に現実的かつ堅実な道を歩むこととなる。サンパウロの専門学校で経営学を学び、ポルトガル語力も習得、日系の農協に勤めるサラリーマンとなった。職場でひとまわり年下だった義母と出会い結婚、姉のところに居候していた両親を引き取り、3人の子供たちに恵まれた。

 農協での勤めは順調のように思われたが、義父の考えと農協の方針が合わない事態が発生、あっけなく解雇となった。しかしながら、日本の進出企業であった農業機械メーカーに再就職、そちらで役員のポジションにつき、癌で亡くなる68歳まで生涯現役で仕事を続けた。

 日本を始め、国内外を出張する忙しい会社員生活だったと聞いている。役職を得るために日本国籍を捨てた。義父は日本移民として伯国に根付き、最後はブラジル人としてこの世を去った。

 病弱で最後の闘病の他にも度重なる入院や手術に耐えた。両親を見送り3人の子供たちを大学にやり、息子として親としての責任は果たされたが、こちらで生まれた3人の孫たちを胸に抱くことはなかった。


***



 両家の話を夫から聞き、それぞれがなかなかチャレンジングな人生を歩んできたものだととても感慨深かった。義父の代で軌道修正されたはずが、祖父のそんなDNAは孫である夫に引き継がれてしまったようだ。。そういえば夫の側では、弟家族もカナダのケベック州に移住している。

 私の側には私の他に海外移住をした者はいなかっただろうと思っていたが、ふと思い出した。母方の祖父の妹?従姉妹?だったかが移民でハワイに渡っていたということを。詳しい経緯などは覚えていないが、私が海外旅行でハワイを訪れるそのずっと前に、祖父はその親戚に会いにハワイを訪れていたのだ。

 私が伯国に移住することを告げに祖父の家を訪ねた時、

「きょうこちゃん、辛いことがあっても辛抱するんだよ」

と言ってくれた大好きだった祖父は、結婚の翌年の里帰りの時には、既にこの世にはいなかった。祖父がハワイで見てきた日本移民の暮らしの様子など、訊いてみればよかったと、今になって悔やまれる。

 ヘッダーの写真は、1週間ほど前に見られた、日本とは「逆向き」の三日月だ。日本移民の方たちが祖国を後にした時、伯国は今より日本からずっと遠かった。(船で3ヶ月くらいかかったとか。)遠い昔に未知の国へと足を踏み入れた先人たちの勇気には圧倒される。私などホント、足元にも及ばないと、しみじみ思った。今年の5月で、伯国での移住生活が30年になるというのに。



【おススメの邦画】

 日曜日に、役所広司さん主演の話題の映画「Perfect Days」を観てきました。海外の劇場で、日本語の音声で観られる映画に大感激。会場のお客さんの半分以上が日系二世か三世の方たちだったと思われます。留学や研修、出稼ぎなど特別な機会がなければ両親、祖父母の故郷を訪れることもなかったのでは?と想像されるような方たちです。

 映画のエンドロールで、客席から誰からともなく拍手が沸き起こりました。日本人としてとても誇らしく、感慨深いものがありました。

 まさに日本人らしさを意識させるストーリー、美しい映像でした。音楽もパーフェクト♡心に染み入る映画の上映をありがとうございます。Muito obrigada!!

 【お知らせ】

 海外移住者のお仲間⁉︎の大江千里さんが、日本時間で本日、NHKの「きょうの料理」にご出演されます。Eテレで2/21(水)21:00〜、今晩です!間に合うかな。

 海外でも放送があります。

【NHKワールドプレミアムジャパン】2月22日(木)1:15~ 放送

 この時間から、それぞれの国の時差で放送時間を計算してご覧くださいね。サンパウロの放送時間は2/22(木)13:15〜です。(私の他にもどなたかいらっしゃれば。。)


この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?