見出し画像

さざなみ

何をしてもしっくりこない時が確かにある。

ただその状態が自分だけに起きたことでは決してないから否定的になる必要もないし、10年前の自分、20年前の自分が、そんな言葉をかけてくれる人がそばにいて欲しかったなって思うから、こうして言葉に残す。たまにそんなタイミングもあるよと。過去の自分を今この瞬間のこの自分の言葉で声をかけて掬い取ってあげる。
「救い」とは、自分の心の上澄みでなく、懐の深淵に溜まった澱み切ったかたまりのような感情を掬い取ってあげること。そう、「救い」とは「掬い」なんだろう。

何をしてもしっくりこない時、その状態がいつまでも続くということは当然なくて(もちろんその只中ではずっと続くんじゃないかという不安感もあるけど)、つまりそれはなにか次のステップに行くための重要な変容なんだと思う。その時その時だけをフォーカスしてガン見してしまうとそのぶん波の大小はかなり激しいものになる。だけど引いて見れば見るほどその波は緩やかに穏やかになる。静止してるように見える電信柱だって実は解像度をあげて見ると揺れているのとおんなじこと。

もしかしたらその「さざなみ」に見えるくらい引ききったピントがメタ的な視点なのかもしれない。

大波のような感情の起伏の只中にあるとどうしてものまれてしまう。だからちょっと逃げる。そうするとああ、自分波に飲まれそうになってるなーって引いて見える。落ち着いて見れる。次の行動や対処を考える余裕が生まれる。

つまり今の自分の心の状態を可視化して納得づける為にこの文章を書いている。人は目に見えない、わからない状態に対して不安になるものだ。

さざなみに見えるくらいの距離感で自分といる。自分と在る。自分が風景に見える。のまれそうな自分はあの空と雲と共にある。向こうで鳥とか飛んでる。飛行機も見える。風が楕円の森を吹き上げる。その風が飛ばした葉っぱが自分の足もとへ落ちる。その葉の葉脈が手相のような形をしている。葉先が茶けている。虫が齧ったのか、はたまたそこだけ強い太陽の光を浴びすぎたのか。

昨日は何をしたか。夕闇に野球部員の声を聞いた。配達の左ウィンカーの音も重なった。ファミマのレジ上のモニターに映る新商品のポップアップがうるさかった。部屋干しのスウェットの腋の下部分がまだ濡れていた。いつも見るぶち猫は見かけなかった。湿気で気だるい。低気圧がウザい。ブルーライトに目がやられる。Amazonの口コミ。3年前のレビュー。脳内で想像する滋賀県の菜の花。あの山の頂き。マルコメのハゲ。ポストの中で端っこが折れた郵便物。全部現実だし全部想像の賜物。冷凍室閉め忘れて溶けた製氷機の氷は今は水。ピストルは持たないけど心の左手にはいつもある。頭の中で今2回ジャンプしてみた。頭の中のポッケの中の小銭が鳴る。小銭のビート。

どうでもいいけど桑田佳祐の「誰かの風の跡」って曲名はすごく秀逸だな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?