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いま、伝えておきたくて。

2020年2月くらいに下書きに入れたままだったこのnote。当時はたしか公開するか迷っていた記憶があるけれど、あらためて読み返してこれは残しておきたいなと思ったので、公開します。

2019年春からスタートした隣町のおにいちゃんたちの 一年密着取材で、どんな日々を過ごしてきたのか。取材対象であり友だちである「彼ら」とどう関係を築いてきたのか。それを映し出すような、ある一日の記録。


1:12、不在着信がありました。

とパソコンで通知に気づいたのが1:13。いつも電話に出るのが下手だ。

スマホを手元に置いていないのが問題なのだけれど、電話文化がベースにあるローカルに飛び込んで早々に、みんな「きくちはあまり電話に出ないやつだ」と察してくれるようになった。

察した上でこの時間に電話をかけてくるのは、一人しかいない。深夜1時台といえば夜勤終わりか、もしくは酔っぱらった状態か。

今日は土曜日のイベント終わりなので、折り返してみると予想どおり酔っぱらっている。「ひゃく(私)、今日ちゃんと帰れたんか」と軽く10時間前くらいの話題からスタートした。

いつも私の帰りを心配してくれる、本当にとうちゃんみたいだ。



隣町のおにいちゃんチーム・ONE SLASHを長期取材する、と宣言してから、もうそろそろ一年が経とうとしている。

「言語化する」行為に慣れていなかったみんなが、長期取材しているインタビュアーがそこにいるからと言って、自分の思いを話してみよう、自分たちを広めてもらおう、と能動的に活用するのは難しい。

難しいというか、そういう発想を持たないよね、と後から気づいた。

「この場にきくちがいたほうがチームにとって有益だ」「きくちにこの瞬間を見ていてほしい」と判断して私をその場に呼んでくれるメンバーもいるけれど、8人全員が常にその判断軸を持つわけじゃない。

というかみんな自分のことで忙しいのだし、私が自分から望んでここにいるのだから、本来は自分から情報を集めに行くべきだし、みんながきくちはなぜいるのかを忘れて当然だ。

ただ長期取材を始めた当初は私もおおいに受け身だったから、「みんなどうして私を活用してくれないのだろう」と不思議に思い、時に「声をかけてくれよー」と悲しくなり、これで長期取材できていると言えるのだろうか、と不安に感じる瞬間もあった。

当時はみんなとの関係もまだぼんやりしていたから、彼らの村に行きたいのに行けなくなっていた時期も、少しだけあった。

「長期取材する」とみんなの前で宣言しておきながら、思うように動けていない自分をみんながどう見ているのか。

そんな小さいことが、気になって仕方がなかったのだ。

彼らの村の横を通りすぎながら、教習所から帰るバスのなかで涙が止まらなかった夏の夕方を覚えている。

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でも長期取材をはじめてから半年経つ前には、それぞれにとって必要なコミュニケーションを必要なタイミングで、一人ひとりに合う方法でつみかさねていければ、それでいいのだと思えるようになった。

毎週何かしらあるイベントも会議も、ぜんぶ行く必要はない。無数にある彼らのプロジェクトの進捗をぜんぶ把握しておかなくていい。

そう思えた頃から、自分のままで彼らと一緒にいられるようになっていった。

だって私が追いたいのは、出来事そのものよりも、一人ひとりの思考の機微や感情の変遷、そしてメンバーどうしの関係性だ。

会える頻度が低いメンバーもいるけれど、そのぶん会えたときにサシでたくさん話せばいい。

私も話したくて声をかけ、向こうも話したいと思ったら声をかけてくれればいい。インタビューや取材うんぬんの前に、友だちとして時間を積み重ねている。

だからもう、彼らとの関係に不安になることなんてない。

これはいつだって、私のままでいさせてくれるみんなのおかげだ。


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誰よりもお米づくりを愛し、田んぼと毎日向き合っているまさやくんとは、よく電話で話してきた。

素面のときもそうでないときも、深夜の話題はいつだって仲間のことだった。

今日は、日中のイベントで心に引っかかったことを教えてくれた。

まさやくんは場の調和を重んじるから、いつも道化になってみんなを楽しませてくれる。その間に、心に灰色のもやがふりつもっていくのかもしれない。

あんなに道化でいるまさやくんが、どの瞬間に違和感を覚えるのだろう。時々ふしぎに思う。それだけ空間のバランスを保っていてくれている。

ほんとうは一人で行動するのが好きなのだけれど、チームで動こうとすると途端に人のことばかり考え、自分がやりたいことや自分の感情をときどき見失ったり後回しにしたり。

占い師さんにも「人のために尽くす」と言われて、思わず顔を見合わせた。


そんなまさやくんだからこそ、他のメンバーが自分と同じ状態になっていないのかを人一倍に気にしては察知して、あいつは辛くないんだろうか、苦しくないだろうか、と考える。私のことも、よく心配してくれる。

考えて考えて、心配や不安がぐるぐる頭をめぐって、心にとどめておく。ひとりでそっと思っておく。

ただときどき、まさやくんのタイミングでそのぐるぐるを電話でうちあけてくれる。今日もそうだった。


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チームで未来を描いて一緒に進んでいる以上、メンバーは多少なりとも「ここは自分としてはやりたくなくても、チームのために、未来のために動こう」としている瞬間があるのではないか。

それはその人にとってしんどくないのか。仲間のためなら自分の違和感にふたをする選択をする。それでいいのか。

何がやりたいことで、何がそうでないことなのか。

どこまでが自己で、どこまでが他者に影響を受けた自己なのか。

自分は、何をやりたいのか。どうありたいのか。


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今日は何度かこう言っていた。

「俺は、俺の役割を果たせているんかな」。

琵琶湖の最北端で田んぼ仕事に打ち込んでいようと、東京でオフィスにこもってパソコン仕事をしていようと、誰かと一緒に動くときの悩みは、じつは近いところにあることを、私は滋賀に引っ越してから知った。


今日は2時間しか寝ていなかったまさやくんの体力が限界で(夜勤からの朝イチでイベントだったから。頑張ってくれてありがとう)、もうそのまま寝ると言っていた。

だからおしゃべりは少しにして、「受け取ったよ」と伝えた。


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一年の取材、と期間を決めて、みんなの瞬間瞬間を見過ごさないようにしようとしている私は、「覚えておくこと」がこのチームにおける役割なのかなと思う。

受け取って覚えておいて、一人ひとりの変化をとらえること。それをときどき、本人たちが忘れた頃に伝えること。

だからもしかしたら、時に本人たちよりも、本人たちの揺らぎを察しているときがあるかもしれない。

ふしぎなもので、今日の昼に私はイベントのとき、まさやくんを目の前にしてそろそろ電話するタイミングだと思った。そう思ったときが話すタイミングなのだろうし、話すことがあるような気がする。

それを伝えたわけじゃないけれど、その日の夜、電話がかかってきた。


それにしても、一年前は私の存在を知らなかったまさやくんが、「今こいつに話しておくべきだ」と思うのか何なのか、酔っぱらって眠たくて、そんなときに寝る直前に思い立って私に電話をかけ、今日感じ取った自分の違和感や見過ごしたくない気づき、思い悩んでいることを話してくれているのだよね。

まさやくんこそ、家に帰れてよかったよ。

電話してくれてありがとう。おやすみなさい。


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刈り取りした直後のお米をもみすりの機械にかけているところ。まさやくんがお米の作業をしているときって、撮りたくなる顔をしているんだよなあ。今年一年でいちばん撮影してきた被写体は、まさやくんだもんね。

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