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終わりとはじまりの、選択の話

「不安でも、扉を閉めて出て行きなさい。神さまがあたらしい扉を開けてくれるから」

中高6年間同じ場所に通った毎日を終えるその日、礼拝の式辞で語られたこの言葉。


この言葉とともに卒業した先輩に聞かせてもらってから、ずっとこの感覚をにぎりしめてきたような気がする。

私はキリスト者ではないから、「神さまが扉を開けてくれる」感覚を持っていない。でも自分で扉を開けるにしても、終えるべき扉をきちんと閉めなければあたらしく出会うべき次の扉は開かれないのだ、と心のどこかに刻み込んで生きてきた。



選ぶことは、捨てること。

一つだけを選びとって、他にあり得たたくさんの選択肢をすべて手放すこと。

自分が手にしない可能性に思いを馳せてしまったとしても、その幻想を自分で打ち破って前に進むと決断すること。



「扉を閉める話」を聞かせてもらったとき、先輩は礼拝で聞いたこの話が大学の行動経済学にも登場したと言っていた。

先輩によると、扉を閉めずに残しておくコストと扉を閉めるコストを考えたら扉を閉めるほうが合理的なのに、ひとは扉を残しておく選択をしてしまうことが実験で証明されたらしい。つまり、非合理的であっても扉を閉めずに残しておく選択をしてしまうそうだ。



扉を閉めずに残しておく道を無意識に選んでしまうのなら、なおさら意識して扉を閉めなければいけない。

扉が勝手に閉まる、誰かが閉めてくれる、なんてことはない。自らの決断によって、自ら手を伸ばして、そのドアノブに触れるんだ。



数多ある選択肢を捨ててきた。捨てなければ、現れなかったかもしれない扉との出会いがあった。

非情な言い方をするようだけれど、人間関係もたくさん手放してきた。一つの扉を開けることで、必然的に閉めなければいけない扉、終わらせなければいけない関係がいくつもあった。


受験勉強を前にして、結果が出るまで連絡を断ち切った。

ひとつの関係を終える決断をした直後、大学生活のほぼすべてを賭けることになる仕事が始まったっけ。

あの空間には、このひとといると自分を偽りすぎて崩壊してしまうと思った関係を置いてきた。あのときだけは、その場しのぎの社交辞令をたくさん使った。


言わないだけで。

扉を閉める前に足がすくむことだってたくさんある。「飄々としている」なんて言われるし、そうありたいと思っているのだけれど、それは扉を閉めた後の自分しか表に出さないようにしているからだ。

断ち切ってきた関係をふと思い浮かべてしまう夜もある。捨ててきた可能性を前にして、不安がよぎる一瞬だってあるんだ。

そして気づいたら、扉を閉められなくなっていた。


歳を重ねれば重ねるほど持ちものが増えるから? 人間関係も絡み合っていくから?

ドアノブにかけようとする手が、そういうものに後ろから引っ張られているんじゃないか。

たくさん扉を閉めてきた昔の自分の潔さがまぶしく思えて涙が出てしまうくらいに、気づいたら、扉を閉めようとする気持ちはあるのに閉められなくなっていた自分がいた。



でも。

重い口を開いて、ようやく、やっとひとつの扉を閉めたとき、「歳を重ねれば重ねるほど」なんて理由じゃなかったんだってわかった。そんなの言い訳だった。

自分の感情を塗り固めてしまっていたら、自分を抱きしめなかったら、自分の声を聞かずに大切なものを見失ったままだったら、扉を閉める決断なんてできないんだった。それを忘れていただけだった。


これまでは、扉を閉めたあとに「自分で自分の選択を抱きしめよう」と思って駆け抜けていたけれど。そもそも、扉を閉める前に自分で自分を抱きしめなきゃ、選べるわけがなかった。

それくらいに扉を閉める決断は自分に負荷がかかるものだし、自分の感覚を研ぎ澄ませていないと閉めるべき瞬間を見失ってしまう。

大切なものがわからないままだったら、次の扉、開けられないんだったね。捨てるって、手放すって、そんな簡単なものじゃなかったよね。閉めるにも開けるにも、扉って重かったよね。




「不安でも、扉を閉めて出て行きなさい。神さまがあたらしい扉を開けてくれるから」


この言葉を持っていても、いつかまた迷うわたしへ。

扉を閉められないときがあったら、まずは自分を抱きしめてみて。

自分で自分を抱きしめられない状態で、扉を閉めてあたらしい扉を開ける決断なんてできない。ましてや、ひとを抱きしめることなんてできないんだって。


「芋虫が蝶になるとき、蛹の中で劇的に変化する。それはちっちゃな芋虫自身の力で変化しただけ。くれちんはあたらしいくれちんになっただけ」

               ── 『獣になれない私たち』最終話より


自分で自分を変化させねばならない。自分以外の何者にもなれない。

何者にもなれないんだから、まっすぐに自分をぎゅっと抱きしめて自分の声を聞いてあげて、これからも自分の意志で扉を閉めていこう。そして、扉を閉められたお祝いに、自分で選びとったあたらしい自分をもう一度抱きしめよう。



知ってた?

自分で鍵をかけない限り、扉を閉めることが永遠の別れじゃないんだよ。扉をもう一度開けようと思うときがきたら、また開ければいいだけ。


だいじょうぶ。いつだって、あなたはあなたの道を選べる。

今この瞬間から、はじめられる。


はじまるよ。




はい、2018年の冬至、終わり。あたらしい、はじまり。

閉めた扉に、ありがとうを言おう。そして、まんまるの満月と柚子にわたしの選択を祝福してもらおっと。


もうひとつ。

扉を閉めたのは自分だけれど、そうできたのは、たまたまタイムラインで目にした言葉、その夜聴いた音楽、その歌声を届けてくれているひとの生き方、誰かの質問箱があったからだ。

誰かが扉を閉めて、あたらしい一歩を踏み出すお手伝いをできるような言葉を、わたしも紡げるようになりたいな。


言葉をつむぐための時間をよいものにするために、もしくはすきなひとたちを応援するために使わせていただこうと思います!