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「何のために書くのか」の備忘録

「書く仕事」というのは、なくてもいいのかもしれない、少なくとも毎日インターネットの海に放出されている何万本もの記事の1本が減っても、世界に何も影響はないのかもしれない、と時々思う。

私は、その1本を生み出す仕事をしている。

だからずっと、「なぜこの仕事をするのか」「私が書く意味はどこにあるのか」。その問いに日々引っ張られそうになる。

なぜ書くのか。
長い長いネパールの旅を終えたいま、
ぼくは自信をもって答えよう。

そこに、手紙があったからだ。

ことばなのかもしれない。
笑顔や怒り顔なのかもしれない。
考えだったり、作品だったりするのかもしれない。
風や匂い、手のぬくもりなのかもしれない。
誰かからの、どこかからの、
有形無形な「手紙」を受けとったからぼくは、
こうしてせっせと「返事」を書いている。

─ ほぼ日刊イトイ新聞 『ネパールでぼくらは。』
ぼくがこんなに書く理由。」(古賀史健) より

あるとき出会ったこの答えは、体の真ん中にストンと落ちた。

インタビューは、そのひとの時間をいただくということ。そこで聞かせていただいた言葉を預かって世に届ける、言葉の宅配便。

インタビューがなければその時間を使って、会社の未来につながったりひとを喜ばせたりする仕事をひとつできたかもしれない、100年後まで残る伝統工芸品をひとつ多くつくれたかもしれない、家族と一緒に笑えたかもしれない。

インタビューを受けた時間のせいで、ライターがどんなに気をつけても取材させてくださったご本人が批判されてしまうかもしれない、ものが売れて本来の持続可能な供給を需要が上回ってしまうかもしれない、ご本人の近しいひとたちにしわ寄せがいってしまうかもしれない。

特にローカル取材なんて、その地域を案内していただくケースが多いので、ほとんど丸一日お時間をいただくこともしばしばだ。

そうやってインタビューさせてくれた方々に貴重な時間をいただき、「手紙」を託してもらったからには、人生の先輩たちに何か少しでもお返しできるような「返事」を書きたい。

インタビューをさせてくれた方々に、喜んでもらいたい。

そう思っていた。


でも、ちょっと違ったのかもしれない。そう気づかせてくれたひとがいる。

ぜんぶ植物素材で「和ろうそく」をつくる職人の大西さん。自分の代で100年目を迎えたろうそく屋さんを、和ろうそくを、そしてろうそくが存在する意味を、次の100年につないでいこうとしている。

次に繋げて、あとに託す。あとのものは、思いを受け、力に変える。
犠牲というのは、自分が死んだあと、自分が蓄えた知と技を未来のために、後進たちが力にしてくれてこそです。

─ 「送りバントの話」より

大西さんは、「きくちは、誰の何のお役に立とうとしているんだ?」と問いかけてくる。「何のために文章を書くんだ?」と。

一人ができることなんて、ちっぽけなら。せめてもの「ちっぽけ」は、「まえ」ではなく「あと」につなげ。

大西さんの文章に、そう言われている。

この事件のような記事は、大西さんが「返事」のために書いているわけではなく、自分のために書いているのでもなく、明確に「あと」のために書いていることがひしひしと伝わってくる。


ああ、そうか。インタビューを書かせてもらう意味を、ようやく理解したかもしれない。

私が書くべきなのは、「手紙」をくれたひとに書く「返事」ではないんだ。

少なくとも、そのひとだけに宛てて書くのではない。自分のために書くのでもない。

私が先輩たちから受け取った「手紙」。その「手紙」と私自身の願いを込めて、次の「手紙」を書く。この言葉を受け取ってくれるあなたの明日に、その次の誰かにつながるように。

そういう仕事を、していこう。

「ちっぽけ」だからこそ、一生懸命に書いていこう。



何のために書くのか? 今は、こう答える。

── 「手紙」を、つないでいくため。


言葉をつむぐための時間をよいものにするために、もしくはすきなひとたちを応援するために使わせていただこうと思います!