相手への執着をぎりぎりのところで手放す、成就させない恋。元祖恋愛本が語る大人の色恋。90年に渡る超ロングセラー「いきの構造」。
『いきの構造』 九鬼周造 1935年(昭和5年)
90年近く超ロングセラーを続ける元祖恋愛本
「いき」というのは、純粋の「粋」。「粋なはからい」「粋なことやるね」の「いき」。
京都では「すい」といいます。英語で言えば cool になるのでしょうか。
今で言えば、「イケてる」となって、イケメンというのは粋な男。本来は顔だけじゃないわけで、となると、この「いき」というのは、かっこいい、だけじゃない気がしますよね。
もっといろんな要素が何層にもなっている感じがするし、その人の人格まで出ているような。
それを解明しようとしたのが、この本なんです。
京都帝国大学哲学科の教授だった九鬼周造は、パリ留学中にホームシックのせいで故国での自身の浮世の色事に思いを馳せていたときに、この「いき」の本質を語る着想を得ます。
彼は、江戸期の市井、特に遊郭の文化や風習を通じて、「いき」を語っていきます。
ただ町でやりとりされる言葉とかファッションの意味合いを解説しただけなら、90年近くも読みつがれない。
哲学者の彼が「構造」と銘打っている限りは、西洋哲学の精緻な論理、手法によって、このかなり日本的な「いき」を分析して、ある普遍性に迫っていくのです。
彼によれば、「いき」は互いにまったく無関係な3つの要素で構成されるといいます。
ここがものすごく独創的で、こんな大胆な取りまとめをした考えはなかった。
しかも、その3つ、日本人なら誰しも心当たりがあるもの。
「色気」
その1つめは、「色気」。
色事にある艶っぽさです。これがないと、カッケーだとしても、「いき」にはならないんです。
この本に出てくる言葉としては、男女間で交わされる「媚態」。相手を恋い慕うときの、なんというか、ちょっとなまめかしい態度や会話のことです。
相手に近づこうとする方向なので、当たり前なんですが、実はこれだけではただのエロ。実は相手のことなど考えてはいないのだから、「いき」には到達できない。
「意気地」
次に出てくるのは、相手から離れようとする、「意気地」(いきじ)=意地を張ること。やせがまんのことです。
媚態が高じてくると、一人の人間としての自分の「誇り」が気になってくるんですね。
ふと持ち上がる「なぜこんなにかきまわされないといけないの」というやつ。
武士道にもありますね。相手に支配されまいとする、反骨心みたいなもの。
つまり、強い自立心がないと、「いき」にはならない。
「諦め」
で、最後どうなるかというと、3つ目に来るのが「諦め」。これが一番肝心。
「諦め」とは今でいう積極的な諦め、つまり「諦念」のこと。
引き下がるでもなく求めるでもない。互いを束縛するような執着的な関係からの解脱。本質的に他者とは一体にはなれないのだという諦念にたった関係。
まさに仏教的な色合いをもちますね。
互いに極限まで近づきながら、決して関係を成就させない。
相手への執着を、ぎりぎりのところで、手放す。でまた、近づいて、くっつくかと思うと離れる、距離のある関係。
ですから「いき」というのは、固定された、おさまったものではなくて、常に揺れ動いている浮遊感が本質。
恋であるなら、目的への指向はあって突き進むのだけど、決して完成させない恋。成就直前まで行っては戻ったりという中途半端さの最中に出てくる、いろんな態度に現れるもの。
成就した先の荒涼を知っており、そこに向かう愉悦の価値も信じている。
「いき」とはまさにこれだと、九鬼周造はいうのです。
これって、夫婦になってしまえばありえない関係ですよね。夫婦は男女の「成就した」関係だから。とりあえず、であっても。
九鬼に言わせれば、夫婦は男女の「終わった」関係。「いき」なものは存在しないといえます。
夫婦関係がドキドキしないのは、「いき」なものがないからです。
色恋・武士道・仏教という、まったく違うものを、「いき」の中で束ねて説明した、これがものすごい独創で、あとにも先にもなかった仕事。
京都祇園の遊郭から大学教壇に通ったという実践の人、九鬼周造先生。
イケてます。
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