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ビックハグビックラブバレンタイン

いつもは湯船に浸かっている時間も含めて1時間ほど風呂に入っているのだが、気が気じゃなかったので烏の行水で入浴を済ませる。
リビングで寝ている祖父の元に駆け寄り、胸のあたりが上下に動いていることを見て安堵する。
手を握るととても冷たい。「おじいちゃんの手はとても冷たいね」と言いながら、血管が浮き出た紫色の手に「ハーッ」と息を吹きかけ、何度もさする。
温まってきた祖父の手と反比例して、化粧水もつけずに風呂から飛び出した31歳の顔面はカピカピと乾燥してきた。

手を温めたが、相変わらず呼びかけには反応しない。
手を握りながら藤山一郎「丘を越えて」をYouTubeから流す。すると、明らかに指でリズムを取っているのが私の手の中で分かる。
意識がはっきりしていなくても身体は音を拾っているのか。良い音楽を聴くと自然と身体が揺れちゃうよね~と嬉しくなって、ハグをしながら頬ずりしたら、顔もとても冷たいことに気付く。
脱水が怖いが、床暖房の温度を少しだけ上げる。

皆で過ごす最後の夜になるかもしれない、と思い母にもリビングで寝てもらう。
今夜も30分毎にアラームをかけたが、寝過ごしてしまう心配は無用だった。母のいびきがうるさ過ぎて入眠しても15分程で起きてしまう。

起きて様子を伺うたびに、苦しそうに呼吸するタイミングが増えている。その都度、耳元で声を張り上げて「おじいちゃん、暖かくなったら身延(山)に桜を見に行こうって約束したじゃん!約束破っちゃ嫌だよ」と駄々をこねる。祖父は渋々、半ば面倒臭そうにコクっと頷く。
あぁまだ大丈夫だと安心する。

山梨県の身延は祖父の郷里だ。その関係で我が家の宗派は日蓮宗なのだが、祖父自身は全く信仰心がないように見えた(祖母の四十九日の法要で、胃痛と寒さで震える私のために、お経を中断させようと「おわり!やめ!」と叫びまくっていたほどだ)。
それでも日蓮宗の総本山である身延山久遠寺には、幼い頃に遠足や体育の時間で行ったとかで思い入れが深いようだった。

今日の朝になると、更に苦しそうにゼーゼーと呼吸する回数が増えた。一昨日はギュッとハグをすると力強く嫌がられたが、もうそんな力もないようだ。
祖父の小さくなった身体にぴったりと自分の身体を密着させながら規則的な胸の音を聞く。胸の音さえ正常だが、他の部分はもう既に時が止まっているように見える。

14時に訪問看護がくる予定だったが、前倒しで12時に来てもらうよう調整する。
母には「過保護だね」と茶化されるが、「おじいちゃんだもん」と答えにならない返事をする。

ゼーゼーと荒い呼吸の祖父を一目見た看護師は「耳はね、最後まで聞こえますから傍にいてあげてくださいね」と私と母にゆっくり語りかける。

祖父と手を繋ぎながら、え?そんなご臨終みたいなこと言います?みたいな語気で「あの、まだたまに頭ポリポリしますし、今も手を握ってくれてますよ」と私は反論した。

「えぇ、でもそろそろ最期の呼吸である下顎呼吸という顎を使った呼吸が始まると思います」
そう言っている最中に、祖父の下顎が外れたようにゴッと下がり、呼吸と合わせて上下運動を始めた。そしてみるみるうちに呼吸が止まった。
「止まりましたね」と看護師は苦しそうに言いながら、聴診器を祖父の胸に当てる。

「おじいちゃん!身延に行くって約束したじゃん!まりなとの約束破っちゃ嫌だよ!」と31歳の孫が、5歳の孫に戻ったかのように絶叫し、92歳の老体の肩を強く揺さぶる。

その動きに反応し、もう一度だけ呼吸を始めるが、私は既に気付いていた。
祖母を看取ったときも同じ身体反応があった。一度止まった呼吸はもう元のようには戻らない。

耳は最後まで聞こえるのであれば、どうかどうかあなたのことが大好きな孫が傍にいることを忘れないでほしいと語り掛ける。甲州弁で。

「おじいちゃん、安心しろし。これからもまりながずーっとおじいちゃんの傍にいるからね。おじいちゃん、まりなが生まれたとき一番最初に病院に駆けつけてくれたじゃんね。それからずーっと傍にいてくれたよね。これからはね、おじいちゃんがどこ行ってもまりなが傍にいるから、おじいちゃん安心しろし」と言って、ギューッとハグをして、音が止んだ胸に顔を埋めて泣いた。

祖父は困ったような表情を浮かべて不器用な手つきで私の肩をさする。その不器用さが面白くて思わず笑って泣き止む。

「ねぇおじいちゃん、たまにはさくらいのラーメン食べ行こうよ」「タンメンか、いいな」「ね、土曜日にさ、二人で自転車に乗って行こうよ」「そうするか」

写真 鳥野みるめ


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