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チカーノソウル、私にとってのLAという街


右から、Seth, Tomoko, Marina, Martin Luther King Jr in Rochester Ave, LA.

5月21日「チカーノ・ソウル~アメリカ文化に秘められたもうひとつの音楽史」の著者ルーベン・モリーナ氏のトークセッションとDJを聴きに、代官山の晴れ豆へ行った。

約一年前、「とにかく、チカーノソウルは絶対聴いたほうがいいよ」
トラスムンドに長居をした帰り際、今日の音楽談義のすべてをまとめるように言われた。私はこの日初めて、チカーノソウルというジャンルを知った。

まだ6月上旬だったとは思うが、湿気が多く、暑がりの私はいつにも増してじっとりと汗をかいていた。
暗くなった店の外に出てもまだ暑いし、湿気でモヤッとした。「そろそろ梅雨かな」とLAのカラっとした気候に思いを馳せた。

私が初めて行った海外はアメリカだ。
小学校3年生の時に母親と、遠い親戚を訪ねるためにLAとシアトルとシカゴに行った。私の祖母は厳しく、彼女が首を縦に振らないと私の外出は困難を極めたが、アメリカ旅行は快く送り出してくれた。

祖母の従妹で節子さんという女性がいた。彼女はいわゆる戦争花嫁で、二十歳で米兵と結婚して渡米した。
イリノイ州のマトゥーンという街に居を構えた二人は、じきに四人の子をもうけた。

残念なことに節子さんは、50代半ばで癌により亡くなった。

それからというもの祖母は「吉祥寺のママだ」と称して、米国中に散り散りになった節子さんの成人した子供たちを日本に呼び寄せて交流の場を設けていた。

この旅行で、私と母がアメリカに住む親戚を訪ねるたびに「とも子がくれた時間は本当に最高だった。感謝しかないよ。作ってくれたすき焼きの味が今でも忘れられない」と皆が口を揃えて言っていた。

ロスアンゼルス国際空港に降り立った時、あまりの気候の良さに子どもながらに驚いた。それまで夏はひとつしかないと思っていたが、どうやら違うらしい。この世界には、私が好きな夏もあるのだと思った。

空港では、アルとポリー、長男のセス、次男のシドニーが出迎えてくれた。
この中で私たちと同じ先祖を持つのは、節子さんの孫にあたるセスだけだ。

節子さんの娘であるメアリーはアルと結婚してセスを産んだが、ほどなくして乳がんで亡くなった。

UCLAで考古学の教授をしているアルはその後、同じく考古学の研究をしているポリーと出会いシドニーが生まれた。

幼い頃に一度だけ、私とセスは吉祥寺の実家で遊んだらしい。もちろんお互いそんな記憶もなく言語もわからなかったが、すぐに打ち解けた。

血も繋がっていない遠い親戚にも関わらず、アルとポリーは一週間私たちに歓待を尽くしてくれた。
小ぶりなゲストルームに一日三食つきで、博物館や美術館へ連れて行ってくれる予定がぎっしりだった。
彼らの家はUCLAの目と鼻の先だったため海からは遠かったが、“I wanna go to sea.”と頼めば何度でも車を出してくれた。

他の親戚に会うためにLAを後にする前夜、私はずっとここにいたいと駄々をこねた。困ったアルが優しく語り掛けた。
「いつでも帰ってきていいんだよ。ここの部屋は、まりなのために空けておくから。次は一人で来てもいいよ、空港まで迎えにいくから」

彼らがここまで優しく尽くしてくれるのは、祖母のお陰なのだと思った。苦手な祖母に少しだけ会いたくなって、アルに「わかった、じゃあそうするね」と伝えた。

それから23年後、私はまだあの部屋に帰れていない。
帰れない代わりに、LAやその付近で醸成されたチカーノソウルに魅了され、あのレイドバックしたサウンドでこれでもかというぐらいにフロアで身体を揺らしていた。

晴れ豆を後にする頃には、LAのそれぞれのコミュニティで育った音楽と、それぞれの歴史をもっと知りたいと思っていた。

アルはいまだに「いつでも遊びにきてね」とクリスマスカードを締めくくる。
祖母が亡くなった報をいれた時は「とも子もまりなも大切な家族だよ」というメッセージとともに素敵な写真も届いた。

かねてからNYに行きたいと言っていたが、まずはLAに行くのが現実的かもしれない。

今年中、いや来年ぐらいだろうか。
Sonido Del Valleという仙人掌が記事で紹介していたレコード屋にも行きたいし、クラブにも遊びに行きたいし、旅行中に文章を書く時間も欲しい。

そんなことよりまず、私が知らない祖母とも子の話をいろんな人から聞きたいと思うのだ。全ての街と街、人と人はどこかで繋がっているはずだから。

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