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「ハンセン病文学の新生面」に行って


私たちはどんな時だって想像しなければならない、そう強く思った。

「ハンセン病文学の新生面」という企画展を見に、去年の8月以来の国立ハンセン病資料館に行った。

ときに社会は、徹底した隔離環境を作る。
ハンセン病も含めた医療的施設や障害者施設、乳児院も含めた児童養護施設。また、この括りに賛否があるかもしれないが懲罰施設もそれにあたるかもしれない。もちろん入管だってそうだ。

なぜ隔離をするのか?なぜ集団生活を強いるのか?
この問いを行政側に投げ掛ければ、れっきとした答えは出てくると思う。

大多数の市民のため隔離をしているーその先にある差別のことは忘れて。

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私は日記も含めた自伝的文章を読むのが好きなのだが、今回の展示の文章を読んでいるときはただただ苦しくて涙した。
筆者自身のやるせなさや、嗚咽していた後ろ姿を垣間見ることができたからだ。

自身の身体が変形し、当時は寿命も短いといわれてきた中で、隔離政策によって更に強固になった社会からの差別意識。

絶望でしかなかったと思う。

近代の社会保障の実現のために隔離政策はあらゆる側面で合理的かもしれないが、隔離を強めていけばいくほどその社会保障にライドできる人はより少なくなる。
分かりやすく言えば、監視の強い格差社会だ。

ではどんな社会が最適なのか。
私だってそんなことまで分からない。

ただ一つだけ言えることは、自身が隔離される側になることを想像していかなければならないと思う。

想像して苦しいと思えば、そうじゃない社会を考えていくことが出来るんじゃかなって思うんです。


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