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ドイツの森の幼稚園で実習している自分が抱いている教育観を、2万4442文字使って全部吐き出してみた!


自分が作っている「自分の教育観の棚卸し」マガジンについて記事にしてくださった方がいらっしゃった☟


それきっかけで自分でそのマガジンを見返してみると、ただただ376本の記事を垂れ流していただけで、全く体系的にまとめきれていないことが分かったので、この土日を使って自分の教育観を整理してみた。




自分が考える教育的信念


☆子どもからの「見て!」には絶対に応える


子ども達にこれまで何度、「キーくん、見て!」と言われたことか。

自分の描いた絵、木に登った姿、発見した何か面白いもの、工作物、家から持ってきたお気に入りのモノなどなど、子ども達は何でも見てもらいたがる。

で、子ども達が「見て!」って言うのは、好きな人にしか言わないんですよね。そのことをなんとなしに感づいたので、「キーくん、見て!」と言われたら、どんなに忙しくても一回作業をストップして見ますし、その際は何か一つリアクションを大げさにすることを心がけてましたね。

やっぱり、無視されたら嫌な気持になると思いますし。

で、このリアクションの参考にしたのが自分のお父さんの姿ですね。

2歳か3歳の頃にお父さんと二人で家の近くを散歩してた時のビデオがあって、それを見てると、僕とお父さんが用水路に行って、僕が「見て~」って言いながら用水路の側に立って、わざと足を用水路側に入れようとすると、お父さんが「あぁ~、やめて~落ちるよ~」ってリアクションしてくれたんですね。で、その様子を見た小さい頃の自分が面白がって、また同じことを繰り返して、お父さんもまたリアクションしてくれたんですよね。

その経験があったんで、大人になった自分はしっかりと子どもの「見て!」に反応して、リアクションして楽しませようと思ってます。


☆子ども達に自由を与えることが出来る少人数体制でやりたい

子ども達の人数が多いにもかかわらず、大人の人数が少ないと、どうしても大人が子ども達を”管理する”方向に行ってしまいがちになると思う。管理するってなると、精神衛生的に良くないと思うんですよね。子ども達が言うことを聞かなかったらイライラするだろうし。

個人的には逆に、「子ども達が従ってくれる」感じも嫌なんですよね。自由が好きなので、子ども達を支配するのはあんまし好きじゃない。

なので、先生1人に対して大体子ども5人っていう体制の森の幼稚園が良いんです。それくらいの規模だったら、子ども達一人一人と狭く深い関係を築いたうえで、互いに話し合って、それぞれの意見を尊重し、個人やグループとしての行動を決めることが出来ます。そこに”自由”を感じられるので好きです。


☆自分のどの行動が、子どもに対して多大な影響を与えるかどうか分からないから、子どもといる時は常にその時のベストの自分を出す


大人が言った何気ない一言がその子どもにとっては一生心に残っているという事例は、よくあることだと思います☟(良い思い出も悪い思い出も…)


だからこそ、「職業」として子ども達と接する自分の場合は、常に自分のベストを出し続けたいと思うのです。子ども達の前では自分をさらけ出して、全力でぶつからないといけないなと思います。なぁなぁな気持ちで、相手の人生にかかわるなんて出来ないです。ましてや、仕事としてやるんですから。

自分自身をぶつけた結果として、「Führe sie nicht den leichtesten Weg, aber den schönsten.(子ども達を最もラクな道ではなく、最も素敵な道へと導く)」ことを達成出来たら、最高だと思ってます。


というか、子ども達に対して大人は、自分の歩んできた道しか教えられないと思うので、自分自身が素敵な道を歩んでないと、子ども達を素敵な道へと導くことはできないと思っている。


自分が素敵な道を歩んでいるかどうかはさておき、出来ることといえばただただ自分自身を出すことであると思うし、そういう風に全力で向き合ってくれる大人の存在が、子ども達にとっては嬉しいのではないかと思う。

子供にとってうれしいことは、我等がいかに立派な人間であるかよりも、我等をいかに十分に彼等に与えてくれるかである。子供にとってもっとも幸福なことも、教育にとってもっとも肝心なことも、恐らくこれに他あるまい。我等は何をやるかでなくて、我等自身を与えることである。それだけが我等に出来る。 幼稚園雑草(上)p17

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


個人的には教育も芸だと思っている。教育にはその人の個性が出るので。それで、自分が崇拝している立川談志曰く、

<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティー、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
演者の人間性を、非常識な、不明確な、ワケの分からない部分まで含めて、丸ごとさらけ出すことこそが現代の芸かもしれませんナ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
落語というのは「演者のパーソナリティー」以外の何物でもない。ナニ、落語ばかりでなく、芸能の全てといってもいい。

<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくて、その演者の人間性、パーソナリティー、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。


ということなので、やっぱり、自分を出していかないといけないのだなと思うのです。自分を出さないといけないからこそ、普段から精進を重ねて、子どもに見せれるような自分を作っていかないといけないのだと思います。

何も努力してないありのままの自分を見せたところで「芸」にはならない。


あと、やっぱり子ども達は”その人”を要求してると思うんですよね。例えば、子ども達から「キーくん、鬼ごっこしようよ」と言われた時に、『ごめん、今忙しいから出来んわ…。他の先生に質問してみたら?』って返すと、「え~、じゃあ、いいわ」ってなることがあるんです。

なので、子ども達から求められてるという意識は常に持っておいて、子どもと関わる時は全身全霊で臨みたいと思っている。

―――自分でなければならない。―――・・・何事でもこういう心持があってこそ、自分のしていることに力が入る。それでこそ、相手に充分に徹底し得る。・・・どうしたら、どうしたらとばかり考えていて、自分が一人ひとりの子供たちの為にどの位必要のものだということは、一度だって思いもしない。子供たちは要求しているのだ。私を要求しているのだ。私からではない。私をだ。私からお噺を聞きたいばかりじゃない。お噺を私から聞きたがっているのだ。私と遊びたいのだ。 幼稚園雑草(上)p138~139

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


で、子ども達と接する時に、子どもを楽しませたいと思うのであれば、絶対に「自分が楽しむ」ということが必要かなと思ってます。「自分が楽しむ=相手を楽しませる」の法則です。

自分が楽しむことによって、自分の創造力をいかんなく発揮することが出来ます☟

先生が子供の先生であるゆえんは、その能力において進んでいることでは済みません。能力において先生であるだけでは誘導保育案の先生としては足りません。創造性が子供たちより強く盛んでなければなりません。(P94)

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


これら二つの言葉は至極名言だし、相手を楽しませる為にも、常に自分の心の中に留めておきたい☟


自分が楽しんで相手を楽しませるを体現していたのはジーンケリーだと思う。彼が楽しく踊っている姿を見だけで、コチラは楽しくなる。エンターテイナーとして、個人的な理想像☟


相手を楽しませる為に、自分から楽しむのは50%くらい大事なイメージで、残りの50%は、そこに没頭せずに周りが見えているかどうかが大事になると思う。つまり、相手を楽しませる為に”熱い自分”で頑張りつつも、それに熱中することなく冷ややかに周りを見ている”冷めている自分”を共存させることが重要になる。

子供の相手に欠くことの出来ないものは積極、大胆、長閑さと共に、細心と、深慮と、慎重とだ。子供といっしょに笑いながら、ふざけながら、おどけながらも、自分を自ら戒め慎みてみだるところのない一点の厳粛味、それのないものには子供は託せられない。 幼稚園雑草(上)p32

倉橋惣三の著書『幼稚園真諦』についてのまとめ+『幼稚園雑草』の再掲


この精神バランスが結構難しいんですよね。まだまだペーペーなのでこれから経験を積んでいって慣れていきたいと思う。


☆「小さい頃の経験がその子の一生を決めるみたいな論調」には傾倒したくない


ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマン教授が、著書 『幼児教育の経済学』 の中で、教育投資の効率が一番良いのが幼児教育であると明らかにし、5歳までの教育がその子の人生を変えるみたいな論調が結構盛んになった。

確かにそうかもしれないが、個人的には、「人間はいつでも変われる」と思っている(人との出会いや周囲の環境の変化によってどうにでも転がるのだから当然)ので、幼児教育に期待し過ぎないようにしようと思ってます。

あと、森の幼稚園と一般の幼稚園出身の子ども達を比較した研究結果で、前者の方が様々な分野で優れていることが報告されているけど、だからといって、全ての子ども達が森の幼稚園に入園すれば良いのにとは思っていない。

子ども達を見ていると、外で遊ぶのが好きな子もいれば、中で静かに遊ぶのが好きな子もいるので、その子に合った教育環境に行けるかどうかが勝負だと思います。論文の結果ばかり見て、目の前の子どもを見ていないという状況は避けていきたいと思う。


☆教育とは『”今日”を”育”てる、つまり、今日育』である。


「教育とは何か?」という質問に対して、「文字通り、先生が生徒に”教”えて、生徒を”育”てるのが教育」や「生徒と先生が”共”に”育”つで、共育」という回答が一般的かなと思う。

個人的には、教育を仕事(プロ)として行うのだから、自分なりの教育観を持ちたいなと考えていた。そして、自分のこれまでの経験を踏まえて、自分なりに出した答えが「今日育」である。

自分の感覚としては、

今日の積み重ねで出来た過去は、今の自分を支えてくれる。
今日を育てた先にある未来が、今の自分を導いてくれる。

みたいな部分が少なからずある。よって、

子ども達の今日を育てることが出来たら、子ども達は過去の自分に支えられて、未来の自分へと前進していけると思っている。

じゃあ、具体的に「今日育」ってなんやねん?となるので、次の章で説明します。


自分が考える”今日育”の目標


☆お前にあげたいものは香りのよい健康とかちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心だ。


個人的には「健康」と「自分を愛する心」を手に入れることが出来たら、今日育は成功だと思う。その2つの土台があれば、後はその子自身が好きなように自分の人生を築いてくれると信じている。

この考えに至ったきっかけが、自分が大学生の頃に読んだ詩である☟

「奈々子に」 吉野 弘

赤い林檎(りんご)の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。


唐突だが
奈々子
お父さんは お前に多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。


お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。


ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。
自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう


自分があるとき
他人があり
世界がある


お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。
苦労は
今は
お前にあげられない。


お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

お前にあげたいものは香りのよい健康とかちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心だ。


また、自分の好きな漫画である「赤ちゃんと僕」にも、「健康な体と精神を養う」という言葉が出てくる。


これを無理やり詩にかこつけると、

健康な体=香りのよい健康

健康な精神=かちとるにむづかしくはぐくむにむづかしい自分を愛する心

という風にピタリと一致する!笑

では、「自分を愛する心」とは何か?「愛する」とは何か?

個人的にはこの言葉を定義に使いたい☟

つまり、自分を愛する心とは、「自分に何かを与えたい」ということである。

「何か」とは何か?まぁ、それは人によって違うのであろうが、

個人的には生きる意味を、「誰かに生きる勇気を与えるために生きてるのよ、誰かに勇気をもらいながら。(宇宙兄弟)」と解釈しているので、

「何かとは、『生きる勇気』である!」と答えたい。

で、生きる勇気って、先述した

今日の積み重ねで出来た過去は、今の自分を支えてくれる。
今日を育てた先にある未来が、今の自分を導いてくれる。

みたいな感じで、過去と未来によって作られるモノじゃないかなと思うのです。

過去というのは、「挑戦、成功、失敗、努力、頑張り、没頭」みたいなイメージ。そういう経験が、今の自分を後ろから支えてくれるのではないかと。

未来というのは、「夢、目標、理想、憧れ、好奇心、想像力」みたいなイメージ。そういう情熱が、今の自分を前へと導いてくれるのではないかと。

で、その過去と未来を作るのに、森の幼稚園ってメチャクチャ良いんじゃね?と個人的に思っているわけです。


なぜ森の幼稚園なのか?


森の幼稚園は、子ども達が挑戦できる環境を備えていて、様々な体験を与えてくれるし(過去を形成する)、子ども達の好奇心と想像力を刺激して、絶えない情熱を与えてくれる(未来を形成する)んですよね。

これによって、「自分を愛する心」が育まれるかなと思ってます。

あと、「健康」という面でも言わずもがな、自然環境に触れることによる免疫システムの強化や外遊びによる身体操作能力の向上などが挙げられます。

ここで一応、森という環境における心理的な効果をご紹介☟


*カテドラル効果

・天井の高さは、人間の心理に影響するという法則
・低い部屋は細部に向かう思考を活性化し、綿密な作業に適している
 コンビニやファーストフードなど目的が明確で滞在時間が短い店舗に向く
・天井の高い部屋は抽象的思考や創造性を活性化させる
 住宅リフォーム店やカジノなど想像力を働かせて滞在時間の長い店に向く→森の中で想像力が活性化される理由


*緑色が持つ色彩効果

・心や身体の疲れをいやす。
・疲れた目を休ませる。
・鎮静作用で緊張を緩和する。
・リラックスの作用がある。
・穏やかな気持ちを与える
→緑色が人に良い理由


*バイオフィリア効果

・人間が自然と交わりたいと望む本能的、また遺伝的な欲求のこと
・1980年代にハーバード大学の生物学者エドワード O.ウィルソンが提起
・自然との触れ合いを通じて、ストレスの軽減、社交性や問題解決能力の向上、生理的機能の安定、健康の改善等の効力が期待される
・自然を感じられるオフィス環境(バイオフィリックデザイン)で働く人の方が、そうでない人に比べ、幸福度15%、生産性6%、創造性15%高いという調査結果
→自然が人間にとって良い理由


*森が神経面に与える影響

・聞く、見る、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感を使える☞シナプスの構築に対して最も適した環境
・森の中での活動☞木登り、ジャンプ、バランスなど運動能力の向上
・森の中にある多種多様な遊び場や道なき道☞交渉、議論、検討、決断、戦略などの機会
・森の中にある葉っぱや棒など☞想像力、コミュニケーション能力などの涵養
・森の中で起こる日々の変化や四季の移り変わり☞柔軟かつ創造的な対応を習得
・直接的な体験☞重力、静力学、関連性、対立、矛盾、原因、原則、自然に対する配慮を学ぶ


*森が健康面に与える影響

・日光浴による骨の強化、免疫力の増進や殺菌作用
・体内のガン細胞を識別し、破壊するナチュラルキラー細胞の活性化
・最高血圧・最低血圧の低下、脈拍の減少等の自律神経系の改善
・アレルギーに抵抗する免疫システムの獲得


*森が精神面に与える影響

・ストレスホルモンの減少
・日光浴による気分を高揚させるホルモンの増加
・副交感神経活動の高まりと交感神経活動の抑制
・自然の中での遊びがADHSを長い間やわらげる
・温度、湿度、風、輻射熱などにおいて都市より快適


あと、森の幼稚園での「遊び環境」も子ども達に対して様々なメリットを与えていると思う☟


・登降園や食事以外はすべて自由遊び☞子ども達のやる気を促進し、集中力を高める。遊びが創造性と探究心の源であり、遊ぶことで集中力や創造力が養われる。心身の安定や心の安らぎなどにも関与するセトロニン(通称「幸せホルモン」)の分泌機能が高まる。脳内シナプスの回路を形成し、思考力や言語能力を司る大脳新皮質を成長させる。

・森には危険がたくさん☞子ども達はルールを守る必要性を知る

・遊具が少ない☞我慢をしたり、一緒に使ったりすることを学ぶ。森の中にあるモノを使って、想像力豊かに遊ぶ。

・異年齢保育☞お兄ちゃんやお姉ちゃんとしての自覚が社会的行動へとつながる。異年齢交流による社会性の涵養。

・子ども達が協力して遊ぶ☞コミュニケーション能力や問題解決能力を磨く。コミュニケーション能力の向上。認知判断能力(優先順位付け、スケジューリング、予測、委譲、決断、分析)の育成 。

・周りの自然環境への興味☞好奇心を育てて、創造的な思考を養う。子どものあらゆる感覚が刺激され、環境への適応力や子どもの個性を伸ばす。

こういう素晴らしい環境を森の幼稚園は子ども達に提供しているので、一般の幼稚園出身の子ども達と比較した時に、良い結果が出るのは、自分にとっては何ら不思議ではない☟


自分にとって子どもの存在とは


☆子どもは人生に『彩り』を与えてくれる存在

何でこの絵本がビビッときたのか自分なりに分析すると、自分が子ども達と交流していた時に感じていること、つまり、「子どもの存在自体が周りをイキイキとさせてくれる」ということを、これまでになく美しく描いているからだと思います。

子どもと接することで、子ども達から様々な色を受け取って、自分の人生が色鮮やかな彩溢れるモノになっていく感覚があります。子ども達を相手に働くというのはとても楽しいですし、もし給料がもらえないとしても、自分は森の幼稚園の先生になりたいなと思っています。

この絵本では、子どもから大人への色付けが描かれていましたが、個人的にはその逆のこともやっていきたいなと考えています。子どもと一口に言っても様々な子どもがいますから、最初のエリーゼみたいに灰色の子どもがいたっておかしくありません。そんな子どもに出会った時に、エミールのように色付けしてあげるのが大人の役目ではないかと思います。


☆尊敬する気持ち


個人的には子どもは全然好きじゃない。好き嫌いじゃなくて、自分の人生に彩りを与えてくれる存在なので、有り難いというか、尊敬している気持ちが強い。

あと、一生懸命遊んでる子ども達の姿も素敵だなと思うんですよね。で、個人的には、何かに一生懸命に取り組む人は信頼できると考えているので、子ども達に対しては安心して接することが出来るんだと思います。

自分が森の幼稚園の先生をやるというのは、森の中でイキイキと遊ぶ子供たちの姿に感銘を受けているので、その環境を先生として守っていきたいっていう思いが強いです。子ども達に無限の可能性と成長のチャンスを与えることが出来る森の幼稚園は、子ども達にとって最高のおもちゃ箱だと思っているので、自分が森の幼稚園の先生になって、子ども達がそのおもちゃ箱で遊べる環境を作って守っていきたい。


☆「子どもらしい子ども」は「大人らしい大人」に育つ


子どもの時は、「今」や「自分」のことを考えがちだし、何か一つのことに熱中する感じが多いかなと思ってます。

それが成長するにしたがって、「過去・未来」や「他人」のことに思いを馳せれるようになったり、マルチタスク的な行動がとれるようになってくるイメージがあります。

そういう風に、最初は自分中心だったのが、徐々にその範囲が広がって物事を考えられるようになるのが、「大人らしい大人」って気がするのです。

つまり、「子どもらしい子ども(=今や自分のことを考えがち、熱中しがち)」が成長する過程で「大人らしい大人(=過去・未来、他人について考えることが出来て、マルチタスクが可能)」に育つのではないかなと思っています。

一方で、これが反対になると結構キツイのかなと思います。つまり、「大人らしい子ども」は「子どもらしい大人」になるのではないかということです。

子どもの時に、他人の事ばっかり気にしたり、過去や未来の事を考えて今を大切にできなかったり、何でもかんでもやらされたりして、子どもらしくいられずに、やけに大人びた振る舞いしてしまう「大人っぽい子ども」は、その反動で、大人になってから、今の事しか考えない、自分の事しか考えない、一つのことに固執してしまう「子どもっぽい大人」になってしまうのかなと思います。

なので、個人的には子どもが子どもらしくいれる環境が大事かなと思っています。

上記の考えは、「上手にそして巧みに遊ぶ幼児は、その素質と能力の圏内でも上手にそして巧みに学習するだろうし、そして立派なひと・人間になるであろう」というフレーベルの文章を読んだ時にふと思ったのです。


自分にとっての仕事の条件


☆自分の知っている人を笑顔にしたい

個人的には、「知っている人」の笑い声を作っていきたいなと思っている。そういうタイプなので、仕事仲間や仕事相手との関係性は深い方が好き。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。仕事相手は、関係性を築けた子ども達とその保護者。仕事仲間は、相互理解し合っている先生達。しかも、「子ども達15人くらいで3人の先生」という小規模グループ。「浅く広く」の関係ではなくて、「狭く深く」の関係が築けるのは嬉しい。

「まだ出会ったことのない人の笑い声を作っていく」というのは、ミスチルのような「歌手」であったり、「製造業」に携わる人向けみたいな感じがする。要するに、「自分の作った商品が、全国に届き、手に取ってくれた人が喜ぶ」みたいな。まぁ、ほとんどの職種ってマス相手なので、”何処の誰かも知らない人”の笑顔を作っていくのが一般的かもしれないですね。

個人的にはそういうのはあんまし好きじゃないって感じなんですよね…笑

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆相手の笑顔を直接見たい

個人的には、自分のやったことで相手が喜ぶ表情を直接見たいという思いがある。「直接見る」というのが、自分の仕事に対する一番の報酬になる。なので、全国に届けるとなると、喜んでる姿は直接見えないので「なんだかな~」と思ってしまう。

となると、「森の幼稚園の先生」は自分にとって合っているのである。自分がしたことに対して子ども達は直ぐに反応してくれるからだ。基本、子ども達を笑顔にするので、その表情を直接見れることで、モチベーションが爆上がりする。

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆充実感のある疲れが欲しい

①「ボーっとしてる」のが一番苦痛

現場現場によって忙しさが異なるのですが、僕としては、「ボーっとしてる」現場が一番嫌でしたね。

なんたって、時間が経つのが遅い!

そして、ボーっとしてるのが一番疲れる。その疲れっていうのは、「充実感が無い」疲れなんですよね。なんか、「自分、何してんだろう?」って考えこんじゃいます。もちろん、肉体的にも、立ってるだけの方が負担が大きいなと感じる。

森の幼稚園で実習してた頃は、帰りの電車の中で100%寝るほど疲れてましたが、メンタル的には充実感に溢れてて最高な気分でした。

結局は、充実感が欲しいんですよ、自分は。で、その充実感を感じられるのが、「自分の持てる力を出し切った」時なんですよね。ボーっとしてることって、僕以外の人でもできるじゃないですか?だったら、僕はやりたくないわけですよ。このボーっとしてる時間で、子ども達何人を楽しくさせることが出来るだろうかって考えちゃうわけです。

ボーっとしてるのは自分にとって「不完全燃焼」の状態なので、嫌なんですよね。自分を完全燃焼させて、充実感を得たいのです。

昨日で仕事納め!個人的に仕事で気を付けていたことを振り返る!


☆人の心の中に生きれるような深い関係性を築きたい…かも…

②人の心の中で生きたい

先生として働く上での最大の魅力はこれだと思います。生徒の心の中に、自分が死んでも生きられるというのが素晴らしいと思います。

もちろん、警備員だってちゃんと仕事をすれば、通行人の方や運転手の方に顔と名前を覚えてもらうことだってあると思います。

ただ、自分としては、長い時間を共に過ごした人達の心の中で生きたいなと思うわけです。人の心の中に生きれるような深い関係性を築きたいと願うのです。

昨日で仕事納め!個人的に仕事で気を付けていたことを振り返る!


上記のような気持ちはあるんですけど、一方で、早く忘れて欲しいという矛盾した気持ちを抱えているのです…笑☟

自分のことを忘れて欲しくないけど、忘れて欲しい

こういう思いを持ってますね。幼稚園の段階で子ども達と楽しく遊ぶことで、子ども達にとって魅力的な先生として認知してもらい、子ども達の思い出の中で生き続けたいなという望みがあります。しかし、その一方で、自分の事なんて一刻も早く忘れ去って欲しいとも思います。幼稚園を卒業した後の人生において、その時の楽しさを上回るような経験をどんどんと積んで欲しいと思うからです。幼稚園の楽しい思い出なんて遥か遠く、深い谷底に落ちてしまうような、楽しい思い出をたくさん創ってもらいたいなと思っています。

こんなこと考えてる幼稚園の先生っているんですかね…?笑

⑤倉橋惣三が思う「先生の二面性」とは?(幼稚園雑草より抜粋)


☆「早く終われ~」とは思わない

・単純に仕事として楽しいから

これまで社会人として働いた時の心持は、「早く仕事終わらないかな~」でした。毎日毎日、仕事を片付ける事ばかり考えていて、それじゃ楽しくないから笑顔になれません。1年間ヴァルトツヴェルゲ森の幼稚園で実習してた時は1回も「早く終わらないかな~」なんて思ったことがありません。むしろ、閉園した後でも子ども達と遊びたかった!(実際に閉園した後に子ども達から「キーくん、遊ぼう!」と言われたことがあるが、同僚の先生から、「先生にはプライベートの時間が必要なのよ。先生のプライベートを尊重しなさい。」と子ども達に伝えていた。「なるほど、ドイツはワークライフバランスに厳しいと聞いていたが、しっかりと線引きして守っているんだな。」と良い学びになった。)実習中は子ども達と接しているのでずっと笑顔でしたし、毎日が楽しくてあっという間に過ぎていきました。

森の幼稚園に拘ってしまう理由を考察


☆キーくんであり続けられたら最高

死ぬまで「キーくん」と呼ばれ続けたい!

個人的にはこのあだ名に人生を救われたと思っている。幼稚園に通い始めた当初の自分はよく泣いていて、教室で一人ポツンと座っているような子どもだった。社会生活の第1歩で大きく躓いていたと思う。その様子を先生から聞いたおじいちゃんが僕に、「あだ名を付けたらいいんじゃない」と提案してきて、名前に入っている「き」から「キーくん」というあだ名を付けてくれた。で、おじいちゃんから「名前を言う時は『キーくん』って言うんだよ。」と教えてもらった。

その後、幼稚園でまた一人でポツンと座っている所に、ある子どもが自分に「名前何?」って声をかけてくれた時に、その子は答えとして「苗字+名前」を予想していたらしいが、私がおじいちゃんの言った通りにあだ名の「キーくん」と答えてしまったために、その子が不意を突かれて大笑いして、「面白いな、一緒に遊ぼうぜ。」と仲間に入れてもらった。それがきっかけで、教室で一人ポツン状態は無くなり、教室に入れば友達から「キーくん!キーくん!」と話しかけてもらえるようになった。

キーくんというあだ名が無ければ、今の自分とは全く違う人生を歩んでいたのではないかと思うし、キーくんというあだ名に自分は救われたなと感謝している。だからこそ、自分は一生キーくんと呼ばれるような人物でいたいし、それが実現できるのって、高校や中学の先生ではないし、小学校の先生はギリだと思うが、ベストはやっぱり幼稚園の先生だと思う。幼稚園児なら喜んでキーくんと私のことを呼んでくれる。

森の幼稚園に拘ってしまう理由を考察


☆尊敬する人達と一緒に働きたい

昔は「好きな事を仕事にしたい」と考えていたが、今では考え方が変わった。個人的には、「『尊敬』という感情を持てることを仕事にした方が良い」と今は考えている。

なんか、「好き」という感情は「嫌い」を産むが故に、長期的に働けないなと感じています。あと、「好き」っていう表現が、対象の一部分しか見てないみたいなニュアンスが感じられるので、「なぜそれを仕事に?」っていう質問に対して、「好きだからです。」って答えちゃう会話は、なんか深みがないなと感じています。

で、「尊敬」というのは、対象の「好き」も「嫌い」もひっくるめて、尊敬しているという事なので、嫌な部分を見てしまっても耐えることが出来て、長期的に続けられそうだなって感じがします。また、ひっくるめて尊敬してるが故に、対象をしっかりと把握して、「自分独自の信念に基づいてその仕事をしてる」みたいなニュアンスが醸し出されてて、なんか深さを感じます。

A:「なぜ、先生になったのですか?」 「子どもが好きだからです。子ども達の笑顔、遊ぶ姿、成長していく過程、どれも最高ですよね!」

B:「なぜ、先生になったのですか?」 「子どもを尊敬しているからです。もちろん、言う事を聞いてくれなかったり、予想外のことをしでかして困らせられることも多々ありますが、そんなことも含めて、子ども達が私の人生に”彩り”を与えてくれていることに、とても感謝しています。だからこそ、私は尊敬する子ども達と共に時間を過ごせる先生という職業を選び、子ども達がイキイキと遊んで逞しく育つ環境を作って守り、尊敬する子ども達の成長に付き添っていきたいと思っているのです。」

なんか、個人的には、Bの自分でありたいですね。というか、子どもが好きっていう感覚が無いので、端からBしかありえないのだが・・・笑

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆自分自身に対して「責任」と「期待」を感じられる仕事をしたい

今の自分が仕事に対して思うことは、

仕事とは、「自分に対する責任と期待である」ということである。

責任とは、やはり、「プロとしてお金をもらっている以上、それに見合った事を成すというプロ意識」を、”自分で”自分の中に育てること。

他人から言われているようじゃまだまだかなと思うし、他人に植え付けられてしまうと、その人がいない時に手を抜くなんてことも起こり得る。どんな時でもプロでいる為には、”自分で”意識づけて育てていく必要があると思う。

期待とは、「自分が望む方向へ歩んでいる」という将来へのポジティブな気持ちである。

社会人として様々な場所でお世話になったが、この「期待」を持てない所では長く続かなかった。やっぱり、「責任」感だけでは、どうしても自己犠牲になってしまうし、結局は、その責任に押しつぶされてしまうことを学んだ。

責任だけの為に働く毎日は、ミスチルの「彩り」にあるように、”モノクロの毎日”であった。期待があれば、「達成感」とか「充実感」とかを得られるので、自分の人生に彩りがつくのだが、責任感だけで仕事をしていたので、「失意」とか「焦燥」とかしか得られず、自分の毎日から彩りが少しずつ消えていった。

”仕事、志事、私事”…ミスチルの「彩り」やケツメイシの「トレイン」を参考に考えてみる


☆子ども達がその人を先生と認めた時に初めて、その人は先生になれる


「先生」という資格は、幼稚園で働く為に必要な資格であり、その資格を持っているからといって、子ども達の先生になれるかといったら別問題かと思う。やっぱり先生とは子ども達が「この人は先生だ」と認めてくれた時に初めて先生になれるのではないかと思う。


プロとしてお金を頂く己の行為に対して、論理の裏付けが出来てないままやってしまう”できちゃった子育て”は、マズいということですね。


17歳くらいのときかな。ほかにやることもないから、休みのたびに上野の芸大(東京芸術大学)にふらっと遊びに行ってたのよ。そしたら教授たちと話すようになって。しばらくいろんなことを話していたら、ふと疑問に思ってね。「やっていることは同じなのに、なんで向こうは先生って呼ばれてるんだ」って。だけど、よくよく考えてみると、物を作ることに対する意識が違ってたんだよ。俺たち職人は慣れで物を作ってたけど、先生たちは、ものをつくるのに「裏づけ」を持っていた。自分が研究する対象を調べつくして、莫大な知識に基づいてものをつくっていた。そこが違っていた。俺が天ぷらに使う素材に関して勉強するようになったのはそれからだ。慣れでものをつくるんじゃなくて、「油というものはどんなものなのか」「なぜそれを使うのか」、これを徹底的に探究した。そして毎日、作っていく工程ひとつひとつを「これがベストか?」と自問自答する。それを積み重ねていくと、自分の中にたくさんのデータができる。俺は工程や素材に関するデータを20000くらい持ってるよ。それくらい知識があって初めて、素材を最大限に活かすとこができるんだ。

一流は「これがベストか?」と自分に問い続けている――天ぷら職人・早乙女哲哉氏の仕事論


だからこそ、子どもとは何か、教育とは何か、学校とは何かみたいな問いに対してきちんと自分なりの意見を持っていたいと思うし、9月から始まるAusbildungでしっかりと教育学を勉強して、知識を身につけていきたいと思う。


教育関係で好きな言葉


☆情熱を持って前進‼


☆いつも子供を守ろと保育園に対し苦情を言ってきますけどね、これだけは言っときます。子どもは見るもの・聞くもの・手で触るもの、なんでも体験した事を吸収するんです。学習能力が凄まじいんですよ。その能力を止めてしまうのは、いくら親でも許しませんよ。(赤ちゃんと僕)


☆失敗するのが当たり前。成功したら男前。失敗は頭の上ではなくて、足下に置いていく。


☆どれだけ熱心に応援しようとも、それを仕事にしている人間には敵わない(仕事か趣味か:田中慎弥)


☆好きにならなきゃ好きな理由はわからない。だったら、直感を信じてみませんか?理想と違うからとか、条件が合わないからとか、そんなの時間のムダ。人生は一度きりなんです!ガッツいていこう!!


☆ひな…よくやった!!

ひな…よくやった!!

最近のいじめがえげつねーのは じーちゃんも新聞やTVのニュースでいやっちゅうほど見て知ってる!! 見るたび俺ァかわいそうでたまらなかったっ

なのにお前は… そんなおっかねえ所で 友達を助けようとしたんだな!?

すげえ勇気だ!! 大人にだってめったに出来ることじゃねぇ!! お前はすごい!!

俺の自慢の孫だ!! お前は何ひとつ間違っちゃいねぇ!! 友達を助けたんだ!! 胸をはれ!!

今日のドイツ語141:日本の子どもの自殺について報道したドイツのニュース番組で、字幕を全て訳してみた



☆学校だけが世界じゃないんだ


☆俺は自分の手で足で考えて動いて、自分の人生を手に入れたいんや!

外に出たいんや!外にはいろんな世界があって、いっぱい色んな人が自分らの思い思いの時間を生きてて、信じられへんくらい良い奴とか悪い奴とか、自分と全く違う色んな人間がごちゃまんとして世界を作っとんねや。成功するとか、野垂れ死ぬとか、どっちが上とか下とかとか、そんなんは問題じゃなくて、俺、そん中にいたいんや!俺分かったんや。コネも金も才能もなくても、カッコ悪くてもみじめでも、俺は自分の手で足で考えて動いて、自分の人生を手に入れたいんや!

マインドゲーム 1:21:20~1:21:51
「The Actors Studio Interview」と「10の質問」と「10周年」
結構面白いし、おススメの映画


☆自由は秩序を作り、強制は無秩序を作る。(ファーブル:昆虫の行動研究の先駆者)


☆若人よ、自分にとっての幸せとは何か、それを問うことこそが前向きな悩み方だ。自分にとっての幸せをつねに問い続けるのさえ忘れなければ、人生は有意義なものになる。


☆よい大人=『経済的独立+自分に居心地のいい人間関係を自力で開拓+「自分が選んだ」と自分に言い聞かせる姿勢』(by 中島義道)


☆若い時の辛労、買うてもせよっ。立て茂雄、ホレ、お前の足はそのためについとるんだよ。


☆自分に対して嘘をつかないこと


個人的に心がけていること


☆子どもと接する時は機嫌良く!


「所詮子どもだから…」みたいに思ってる部分が心の中にはあるので、子どもから何か不愉快なことを受けても、真に受けずに対応してます。笑

子ども相手に自分の感情を害されるってのが、大人としての自分の感情コントロールがまだまだかなと思ってしまう。

常に変わらず、70%くらいの良い気分を維持出来たら良いと思うし、それぐらいだったら、好きな音楽を聞けば自然とそうなっちゃうタイプ。

音楽は心の栄養素だと思っているので、仕事始める前に音楽を聴くのは個人的には大事な習慣。

あと、叱るってのも個人的にはキャラクター的にあんまし向かない感じ。なので、叱る場面に出くわした時は、そうならない為にはどうするべきかを考えて、2回目を阻止しようとするタイプ。

どうしても叱らないといけない場面では、叱るのが得意な先生にバトンタッチしてます。それも結構抑止力になるので、”チームプレイ”という形で結構良いと思う。

先生1人で20人の子ども達を見ないといけない状況だと、その1人の先生が、叱る役割とかの全ての役割を担わないといけないので大変だけど、森の幼稚園は1グループに3人ぐらいは大人がいるので、適材適所ということで、各々が得意な事をやれば良いという環境が出来ているので良いと思う。

「真に笑がおの人でなくては幼児の友になれぬ」ということを終始忘れないでおります。・・・不平ということを聞いたことがありません。不機嫌な顔色を見たことがありません。どんな寒い日でも暑い日でも、風邪の日も雨の日も、どんな忙しい疲れた日でも、この幼稚園の子どもは先生方の額に八の字のよっているのを見ることはありません。・・・健康の具合とか、特別な事情とかで、どうしても心のさえざえすることの出来ないような時は、ここでは遠慮なく休んでいいことに先生からいい渡されてあります。その代わりに子供に接している以上は、機嫌の悪い、活気のない、いやいやながらというような顔付は固く禁物になっております。(幼稚園雑草(上)p98~99)

②倉橋惣三流!「子どもと遊んでるだけ」と言われた時の言い返し(幼稚園雑草を参考に)


☆子どもの選択余地が残っているような大人の決め方


大人が枠組みを決めて、詳細は子ども達に決めさせるって感じ。


☆相手の感情を理解していることを伝えてから、自分の考えを言う


このやり方は有効過ぎる…☟


☆オウム返し


最高のオウム返しが載っている漫画がコチラ☟

見事なオウム返し。笑


ドイツの森の幼稚園で実際に自分がやったこと


1年間ドイツに留学していた時に、色々なご縁が重なって、スウェーデンの保育研修に参加することが出来ました。その研修には教育関係の仕事を長く勤めていらっしゃる方々が多く参加されていました。その方々は、日本からスウェーデンへ向かい、自分はドイツからスウェーデンに行き、現地で合流する流れでした。

ここで書きたいのは、あるスウェーデンの森の幼稚園を視察した時の出来事です。森の幼稚園に到着した参加者の方々は、登園してきた子ども達に対して「可愛い~」って言ってはしゃいだり、あろうことか、子ども達に近寄って話しかけたり、遊びに加わろうとしていました。

個人的にはそういう態度や行動って、子ども達のことを考えてないよなって思うのです。登園してきた子ども達がまず一番最初にすることって、「安心」を見つけることでしょ?家族より外の範囲の人達との社会性を築いていく最初の時期にあたるんだから、親と離れることに一抹の不安を覚えるのは当然かと。そこで、子ども達は幼稚園に到着したら、好きな先生や友達と話をしたり、自分の好きな遊びをしたりすることで、自分が幼稚園にいても安心する感覚を作ろうとしているハズです。そんなその幼稚園生活の一日の基礎作りをしている子ども達に向かって、見知らぬ人かつ見た目が全く異なる外人が幼稚園にいたり、あろうことか近寄ってきたりしたら、子ども達はどう思うでしょうか?きっと不安になるだろうと私は考えています。なので、私は、他の園にお邪魔する際は、最初はなるべく目立たないようにして、子ども達が一秒でも早く幼稚園で安心を見つけられるように協力するようにしています。

そういう考え方をしているので、登園してきた子ども達に対して、自分の欲望のままに行動するベテラン教育者を見た時にビックリしましたね。案の定、子ども達から不審がられてましたし、ファーストコンタクトが最悪なモノになってしまったので、今日一日で修正するのはキツイだろうなと遠目から見て思っていました。

僕は朝の会が終わって、子ども達が自由遊びの時間に入った頃に、コミュニケーションを図りましたね。もう朝の会というルーティーンを終えて、子ども達が幼稚園での生活リズムをつかんできたと判断したからです。こういう時はいつも1人で遊んでる子をターゲットにします。なぜなら、1対1で直接的なコミュニケーションがとりやすい(2人とかだと、片方が自分に好感を持ってくれたとしても、もう片方が良く思ってくれなかったら、どっかに行ってしまい、関係性を築けなくなる)、一人で没頭するタイプなので自分に興味を持ってくれたら深い関係性を築ける確率が高い子ども一人と仲良くできればその様子を見ている周りの子ども達が自然と寄って来てくれるという理由があります。

最初はその子の遊びを遠目から観察して、次第に距離を詰めていき、気づくか気付かないところで「自分」が遊び始めるんです。砂をいじったり、生き物を捕まえたりとかして自分で楽しんでると、運良くその子が自分の存在に気付いた時に、「何が楽しいの?」って興味を持ちながら寄ってきます。そしたらもうこっちのもんです。二人でキャッキャッと楽しんでいたら、他の子ども達も寄って来て、最終的には気の合う子ども達と深い関係性を築ける。

結局、その森の幼稚園の研修で子ども達からずっと人気があったのは僕だけでした。他の参加者には子ども達は予想通り寄り付かなかったですし、多くの参加者から「なんでそんなにキーくんは人気なん?」って質問されたりしました。参加者の中には30年以上幼稚園の先生をやっているというベテランの方もいらっしゃいましたが、まさかその方から上記の質問をもらうとは思ってませんでしたね。子ども達はスウェーデン語を話していて、僕を含めて参加者全員はスウェーデン語を話せませんでしたが、それでも関係性に違いが出てくるのはひとえに、「子どもの立場に立って行動できているかという意識」ではないかと、その出来事を通じて思いました。

まぁ、「可愛い~」って言いながら近寄っていく気持ちも分からんではないですが(実際に可愛いし、初めて外国人の子ども達と接する女性の先生だったらなおさら母性本能をくすぐられて我慢できないだろうと。)、研修中ということや、子ども達の生活にお邪魔させてもらってるという意識を”メタ認識”として持っておかないと、ただただ感情の赴くままに行動してたらエライ目に合うなと思いますね。

こんなこと考えてる幼稚園の先生っていないんですかね…?笑

「対話」について、中島義道と斎藤環を参考にして、考える

他に印象が残っているのは「ハンモック事件」である。

ヴァルトツヴェルゲ森の幼稚園にはハンモックが設置してあり、子ども達から「世界一ハンモックを揺らすのがうまい人」という栄誉ある称号を頂いていたのは、この記事で書いた通りです。そんな僕ですが、ハンモックに関して1回やらかしてしまったことがあります…

ある日の実習でいつものようにハンモックを揺らしていると、乗っている子どもが「もっと速く!」と言うので速く揺らしたら、子どもが勢い余って顔から地面へ落ちてしまいました。そしてハンモックを手につかんでいたままだったために顔が地面に擦り付けられてしまいました。子どもの顔は血まみれで、泣いてしまいました。鼻血が出ていたのですぐに持っていたティッシュで止めようとしますが、止まる気配がありません。

その状況を見ていたある先生がすぐに救急箱を持って来て手当をすると同時に、救急車を呼んでくれました。その子どもは教育主任が付き添って病院へ運ばれることになりました。私は責任を感じて泣いてしまいましたが、ある先生が側に来てくださって、「森の幼稚園で事故はよくあることだし、保護者の方はそれを十分に理解している。決してキーくんを非難することは無いから、心配しないでね。」と慰めて下さいました。ある子どもからは、「キーくんは悪くないよ、だって怪我した方が『速く揺らして!』って言ったんだから、そいつの責任だよ。」とも言われましたね。そうやって慰めようとしてくれたのは素直に嬉しかったですが、やっぱり自分は責任を感じていたので、「確かに『速く揺らして!』とは言われたんだけど、でも、子ども達の安全を守ることは僕の仕事の一部だから、怪我をさせてしまった時点で、自分としてはとても情けない気持ちになってしまうんだ。」と伝えました。

その日の森の幼稚園が終了する時に教育主任が戻ってきて、その子どもの無事を伝えて下さいました。私は安心すると同時に、まだ心が晴れない気持ちでした。そんな私に教育主任は「私も若い頃失敗したことがある。私と子ども達が各自ろうそくを持って1列に歩いていたら、私の持っていたろうそくの火が後ろの子どもの髪の毛に移ってしまって、その子の髪の毛が半分焼失してしまったんだ!」と自らの豪快な失敗談を話してくれました。それを聞いて、尊敬する教育主任でも失敗したことがあるんだと、なんだか気持ちが少し楽になりました。

その事件が起きて子どもが病院に運ばれたのが木曜日で、その子は金曜日に来ませんでした。土日を挟んで、月曜日になってもその子は来ませんでした。私は自分のせいでその子は森の幼稚園に来たくないのではないかと考えて、責任を感じていました。その子は火曜日になって、ついに森の幼稚園へ来ました。保護者と一緒に登園してきた時に私はすぐその子の元へ行き、保護者と子どもに謝罪しました。すると保護者の方は「心配しなくていいよ。怪我はよくあることだから。今回の件で子どももいろんなことを学んだと思うわ。キーくん、またいつものように遊んであげてね。」という何とも温かい言葉をかけて下さいました。素直に嬉しかったですが、そうはいっても、もう子どもは自分とは遊びたがらないだろうと考えていたら、その子が突然「キーくん、ハンモック揺らして!」って言ったんです!!もうその瞬間、子どもに救われたって気がしました!凄く凄く嬉しかったです!!保護者の方も笑っていました。「よし!ハンモックで遊ぼう!」と言って、その子を乗っけてハンモックを揺らしてあげました。揺らしている間はその子が「だけどあんまり速くはしないでね」と言ったので、慎重に揺らしました。ちゃんと学んでるなと感じました。先生方の優しさ、保護者の覚悟、そして何より子どもの「スゴさ」を体験した出来事でした!

④倉橋惣三的、「幼稚園の先生にとって嬉しいこと」(幼稚園雑草より抜粋)

①ハンモック

「子供たちは要求しているのだ。私を要求しているのだ。」は、めちゃくちゃ分かります。ドイツで実習してた時は、そういう場面にいくつも会いましたね。

例えば、ハンモック揺らし。こちらで既に紹介したように、ヴァルトツヴェルゲ森の幼稚園は4つのハンモックを普段用意していて、いつでも自由に子ども達が使うことが出来ます。

僕は実習を通じて子ども達から、

「キーくんは世界一ハンモックを揺らすのが上手い!」

とお褒めの言葉を頂いておりました。

実習中は、子どもと遊んでない時は殆ど「キーくん、ハンモック揺らして~」って子ども達に頼まれて、休憩がてら、他の子どもの観察がてらに揺らしてました。

何千回揺らしたでしょうか。1年間の実習が終わる時に自分の手を見たら、なんと「ハンモックまめ」ができていたことに驚きました。中指、薬指、小指の付け根が固くなって膨らんでたんです。現在は6年経ちましたが、今でもその痕跡はくっきりと残ってますね。笑

僕が他の子と遊んでる時に「キーくん、ハンモック揺らして」って言われて「今遊んでるから無理なんよ~」って言ったら、「じゃあ、待つ!」って言われたり、そのやりとりを聞いていた他の先生が代わりに揺らそうとすると「キーくんじゃなきゃ嫌だ!」って言ってたりしましたね。笑

まさに、「子供たちは要求しているのだ。私を要求しているのだ。」ですよ。

で、なんで子ども達にハンモック揺らしが世界一と言われたのかというと、次の二つのことを意識していたからではないかと思います。

①位置エネルギーと運動エネルギー
②どうやったら退屈しないか


①に関しては、中学の理科の時に習ったことがあると思います。

僕はハンモックを揺らしている時はいつもこのイメージを持っていました。つまり、「地面すれすれの位置に来た時に、ハンモックに乗っている子どもは一番スピードを感じる」という事です。

それが分かっていれば、ちょっとした手間をかけることで子ども達はもっとスピードを感じることが出来ます。例えば、地面すれすれの少し前に手首のスナップを利かせて加速を付けたり、スピードが最大になったところで「ビューン!」とかの声掛けをしたりすることを僕はやってましたね。手首のスナップをクイッと利かせる時に、中指、薬指、小指の付け根で押していたからマメが出来たんだなと考えてます。笑

②の「どうやったら退屈しないか」ですが、例えば自分は数を数えることをしてました。そして、年長さんの子に対しては、たまにわざと間違えるんですよね。そうすると子どもが「今の違う!」ってツッコミしてくれます。年少の子には正しく数を数えることで、数字の勉強になれば良いなと思ってました。

あとは、ドイツ語ではなく日本語で数を数える。これも、子ども達は興味を持ってくれましたね。子ども達の中で「イチ、ニ、サン」が流行ったのは良い思い出です。日本語の数ってめちゃくちゃ速く数えることが出来ますよね。「イチニサンシゴロクシチハチキュウジュウジュウイチジュウニジュウサン・・・」みたいに。ドイツ語も20までは速く数えられるんですけど、21からは、「一の位」を読んでから「ウント(und)(英語で言うところのand)」でつないで「十の位」を読むという不思議な読み方になるから時間がかかるんです。21なら「アイン(1)ウント(und)ツヴァンツィヒ(20)」、22なら「ツヴァイウントツヴァンツィヒ」みたいな感じです。で、僕は「日本語で100までめっちゃ速く数えられるよ!」って言って披露したら、子ども達にめっちゃくちゃウケて、それ以来、「キーくん、百まで日本語で数えて!」って何回もリクエストされるようになりました。笑

数字以外にも積極的に話しかけてましたね。子ども達とじっくり会話できる時間になるので、何とか有効活用したいなと思って、色んな質問を投げかけました。他には、木の裏に隠れてハンモックが止まった時に子どもが周りを見て「キーくんがいない!」って叫んだら出てきてあげるとか、葉っぱを集めといて振りかけてみたりとか、「俺が乗りたいから、逆に揺らして!」って言って子どもと立場を交代させたりとか(ハンモックは大人1人乗っても大丈夫な頑丈なつくりなのです。結構お腹出てたり、長身だったりした他のドイツ人の先生が乗っても大丈夫だったのには驚きました。100人乗っても大丈夫なイナバの物置みたいな感じです…笑)、位置エネルギーが最大のところで急に抱えて止めてみたり(これはあんまし評判が良くなかった・・・笑)など、色んな事をしましたね。

他の先生方のハンモックを揺らす様子を見てると、ただただ揺らしてるだけの方が多かったので、他の先生と違いが出て、子ども達にとって自分が魅力的になったのかなと思います。

③倉橋惣三が考える、「子どもにとって嬉しいこと」とは?(幼稚園雑草より抜粋)


④最初の”試験”

振り返ると、子ども達から最初に試験を出されていたなと思う。僕がどれだけ子ども達に「自身を与える」かどうかを見抜く試験を。

実習初日はまだ子ども達との関係性は当然できてないし、しかも自分がドイツ人ではないので、結構子ども達は遠目から見ているような感じだった。だけど午後くらいに興味を持った子が「鬼ごっこしよう!」って言ってタッチしてきたんですよ。で、その子が逃げたんで、「俺が鬼なんか」と思って、追いかけたんですね。で、そしたら、その様子を遠目から見ていた子ども達が次々参加してきて、あっという間に15(くらいだった気がする…)対1の鬼ごっこの開始ですよ。

もうそれはキツイってもんじゃなくて、理不尽の連続で終わりが見えないんです。笑
タッチしても「バリアしてるから無効」って勝手なマイルール言われるし、ある子どもを追いかけてたら他の子どもが「こっちも追いかけてよ!」って言ってくるから全員が楽しむように配慮してあげないといけないし、「逃げる人の人数多すぎだろ、鬼一人じゃキツイよ、鬼の数増やそうよ」なんて提案、当時のドイツ語力じゃ出来ないから、一人で鬼をやり続けるしかないし・・・笑
何度「もうやめよう」と思ったことか。

でも、鬼ごっこをすることによって、子ども達は「コイツは、どれだけ、僕たちと向き合って遊んでくれるのか」を試してたんだろうと思いますし、実際、鬼として子どもを追いかけている自分の頭の中にはソレがあったので、「今子ども達に試されてるな。ここであっけなく終わったら、これからの1年間の実習が上手くいかなくなるだろうな。だったら、15人だろうが、20人だろうが、構うもんか!何人相手でも楽しませてやる!そして、この試験に合格して、子ども達とちゃんと関係を築いてやる!」って思いながら全力でやり切りましたね。幸い、午後のごはんタイムの時間が来て他の先生が「遊びの時間終了」って言ってくれたおかげで何とか鬼ごっこは終えられました。長距離が得意で良かったなと思いました。相当疲れましたけどね。

その鬼ごっこの後は自然に子ども達が寄って来てくれるようになり、「なんとか子ども達からの試験に合格できたな」と心の中で安堵しました。

③倉橋惣三が考える、「子どもにとって嬉しいこと」とは?(幼稚園雑草より抜粋)



ドイツの森の幼稚園で戦う為の準備


☆悪い天気など無い。悪いのは服の着方だ。



☆なぞなぞやジョーク、童謡、マジック、工作のアイデアを知っておくと、子ども達とコミュニケーションが取れる



雑感


☆学校とは「思い出作りに最適な場所」。「様々な基準(=嫌な事や好きな事)を知る場所」。


☆森の幼稚園とは「子ども達にとっての最高のおもちゃ箱」。


☆先生の役割とは


☆世界の多様さに目をみはること。それが外国語学習の一番に楽しいことではないでしょうか。


☆ドイツの仕掛け絵本にハマったきっかけの絵本「In meinem kleinen Herzen(私の小さな心の中)」


☆日本の森のようちえんに対して触れた記事☟


☆20代までにしておきたいこと


なぜ勉強するのか?


勉強の目的ってのは、

「自立して生きていく際の選択肢を広げる」

「勉強はしたいと思うモノ」

って感じなのかなと思いました。

たぶん、この「なんで勉強しないといけないのか?」って質問をする生徒が抱える心情的部分って、

「この教科は”俺にとって”全然面白くないし、”俺の”将来に何の役にも立たねえのに、何で”俺は”勉強しないといけないの?」って感じかなと思ってます。

勉強得意な子が「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」って質問しませんよね…?笑

なので、「”俺”は勉強したくない!」という気持ちをぶつける為に、あえて「なぜ勉強しないといけないのか?」と問いかけているのかなと思います。

で、考えるべきなのは、この質問に答えたところで「その子が勉強をするようになるのか?」ということです。

本人が「嫌っ!」って言っているモノを説得させてやらせるって相当難しいなと思います。

「勉強することで選択肢が増えるよ!」って言ったところで、「そんなんどうでもいいわ!」って返されたら終わりです。

そういう難しい状況にの中で、成功するしないは一先ず置いといて、その子に個人的に伝えたいなと思うのは、

「その苦手な部分が貴方を決めるのではなく、得意な部分が貴方を決めるのだから、その苦手な部分を過大に捉えるのは良くない」

という事ですかね。

苦手な部分に気が行き過ぎて、「俺って駄目な人間じゃん…」って思わないで欲しい訳です。苦手なことを理由に自己肯定感を下げないで欲しいのです。

嫌いな教科があれば、好きな教科があるはずですから、嫌いな教科にぶち当たってる時は好きな教科(教科が無ければ、得意な事!)のことを考えて、「俺には~があるから大丈夫だし!」って心のバランスを保ってほしいですね。

☆勉強は自分の認知特性に合ったやり方でして欲しい☟


☆勉強をきっかけに「考える人」になって欲しい…☟


☆考えることが出来ないと、「騙され」て、「狂う」ことになる☟

https://note.com/kikun_waldkita/n/n0a2be0f09480?magazine_key=mb15e8979c2e0


終わりに:信念は自分を導くコンパス


長々と書いてきましたが、自分の信念って、自分を支えるための物なので、別に相手が自分と同じ考えじゃないといけないとは思っていないです。信念は相手を巻き込むものじゃなくて、自分自身を奮い立たせるというか、辛い時に戻ってエネルギーを貰えるものだし、日常的に自分のやるべきことを示してくれるコンパスみたいなモノ。そのコンパスを他人に見せて、一緒に同じ方角へ行こうとはしないです。その人にはその人のコンパスがあるので。

ただ、自分の信念と近い信念を持っている人と出会えるのはとても素敵な事だと思うし、自分の経験で言うと、森の幼稚園は自分の信念を実現できる場所だし、森の幼稚園で働いている人達に似たような信念を持っている人が多かったので、自分は森の幼稚園が良いなと思っているだけ。

PiA-Ausbildungで大変なこともあるだろうけど、辛い時はこれらの信念を思い出して、しっかりと乗り越えていきたいと思う。というか、「ユメで見たあの場所に立つ日まで 削れて減りながら進む」わけですから、ラクして先生になれるなんて1nmも思ってないし。


夢追い虫として、情熱を持って前進するのみです‼


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