オザケンさんとわたし

※この記事は、2019-11-26にぷらいべったーに投稿した記事の再掲です

短文が中心に回るTwitterや画像優先のインスタが隆盛を誇るご時世に、オザケンさんが出した『So kakkoii 宇宙』という名盤について、長い文章をしたため、自身の1995年からのエピソードをまじえて四の五の語る、ファン界隈のムードが好きだなあと思う。ご本人の言葉を借りれば、「面倒くさい人たち」。

その面倒くささがどうにも愛おしく、わたしも同じだった!とか、わたしも同じこと考えた!とか言いたくなって、自分でもこのアルバムに関する長い文をしたためようと企んでいたところ、身の丈に余る幸運が舞い込んでしまってもう、なんかどうしていいのかわからないので、とにかく早く今の気持ちをしたためなくてはと思った次第です。面倒くさい人たちの中の一人として。

時は1995年。……なのか? はいまいち定かではないが、わたしが初めてオザケンさんを知ったのは、ダウンタウンがやっていた歌番組『HEY! HEY! HEY!』にオザケンさんがご出演された最初の回だったと思う。
あの回はいわゆる神回として、その後も何度も再放送されることになるけれども、「家に書庫がある」「祖父が右翼の大物」などのパワーワードがぼんぼん飛び出して、ダウンタウンのお二人が目を丸くするのを、それがなにか?と言わんばかりに笑っているあの細身のおぼっちゃんが、なんだかおもしろくてかっこいい人だな、と思った。
中学生になったばかりの頃、よくわからない謙遜という文化を覚え始めたらしいわたしは、そういう日本らしいふるまいとは大幅に違うふてぶてしさが痛快で、更にそれをキャラクターとして「あの」ダウンタウンに対峙する彼の賢さを、いいなと思ったのだ。
その後オザケンさんは何度も同番組に出演し、また番組主題歌として『戦場のボーイズライフ』を提供した。
そのあたりからわたしは、彼の人となりだけでなくその曲やビジュアルにも魅せられていく。

高校受験を控えた寒い日に、近所のCD屋さんまで自転車をかっとばして『球体の奏でる音楽』を買いに行った。
彼の記事や写真が掲載された音楽雑誌、JAPANやパチパチも買っていた。
パチパチ?に載っていたコンサートの、つけ鼻をつけた人々が笑い大きなボールが上空をポンポン飛び交う写真を見て楽しそうだと思い、高校生になったら、東京のコンサートに絶対に行ってやるんだと心に決めた。
高校生になったわたしは、部活で出会った気のいい友人たちにオザケンとフリッパーズギターを布教しつつ、虎視眈々とコンサートの開催を待っていた。
しかし、その頃から彼の活動は控えめになっていく。いくつかのシングルを発表したときには跳びあがって喜び、また擦り切れるほど聴いた(特に『Buddy』に入っていた『恋しくて』はわたしにはとても分かりやすくて、大事な青春の主題歌でした)し、『Radio show named Saturday』も毎週楽しみにしてたし、オリーブも当然買い始めた。オシャレをするということを意識し始めたのもこの時期だった(遅い)。

『ある光』がさよならの合図であることに、もちろんわたしも気づけなかった。
けれど、デュワッチャライクの最終回『無色の混沌』でフリッパーズギターのことに初めて切り込んだあの文章を読んだときには、なにか彼が、過去や今をすべて清算しようとしているような、不穏な気配を感じたことは覚えている。
とある女性ライターさんがニューヨークまで彼を追いかけ取材し(てしまっ)たあのクイックジャパンの記事も、顔を顰めつつ結局最後まで読んでしまった。
彼が撮った写真を投稿したアサヒカメラも買った。
あのインターネットなんてほぼない時代に、どうやって「オザケンがカメラ専門誌に写真を投稿した」と知ったのかは、今となっては謎でしかない。
それだけの熱意だったのだ。
「もし万が一、どこか旅先の遠い国で彼の身に何か起こっても、報道されずに知らないで生きているのかもしれない」と真剣に不安で、心配だった。
「オザケンのコンサ―トに行きたい」はいつしか執念を超えて人生の目標になり、ぼんやり「一生のうち一度は行けたらいいな」くらいになり、そのうち「まあ、彼がどこかで元気に生きていてくれればそれでいいや」になった。

そして、嘘が覆う2000年代。大学でバンドサークルに入り、洋楽やロックに傾倒したわたしは、それでもオザケンさんのことを忘れるはずもなく、モータウンレーベルと契約するかもという噂に浮かれたり、マーヴィンゲイのトリビュート版や『Eclectic』を勇んでタワレコに買いに行くなどしていた。
その頃にはもう「ひょっとして彼は、たまに入る『刹那』とかの印税で細々とやりつつ、もう音楽のことは半分趣味みたいにして、ニューヨークでパン屋でも開いて楽しく暮らしているのではないか」くらいの妄想にとりつかれていた。それならそれでいい、こちらも好きにやらせてもらいますと思って、擦り切れるほど聴いた曲をまた楽しみながら酒を飲み歌を歌い、呑気に暮らしていた。
親の脛をかじりまくった末に人よりちょっと遅れて社会人になる頃、オタク趣味が再燃して音楽よりそっちに熱意を傾け始め、オタク仲間たちと平日のうさを晴らすよう毎週のように会って遊んだり、アニメやゲームやニコニコ動画について熱心に語ったりしていた(今もしている)。

そうして迎えた2010年に、オザケンさんは唐突に戻ってきた。
札幌市のコンサート会場がうっかりHPにオザケンの名前を書いてしまいひふみよサイトの立ち上げ前から情報漏洩してしまったあの時から、長く長く密かに心待ちにしていた男がカムバックする予感に打ち震えた。
そんなだからもちろんわたしは、例の激太りしたという根も葉もない記事も読んでいたし、『うさぎ!』について穿った見方をする人たちの噂にも傷ついていた。もしかしたら変わってしまったかもしれない彼を目の当たりにするのは怖かったし、ライブの当日になっても(本当に実在するのか…?)なんて疑っていた。
でもひふみよツアー初日相模大野のステージ、「教会通りに綺麗な月」と歌い出す声が聞こえた瞬間、繰り返し何度も聴いたあの声が大好きな『流れ星ビバップ』を歌い始めた途端に、めちゃくちゃ号泣してその場にうずくまってしまった。照明がついて、あの頃と変わりないかっこよさで君臨するオザケンさんを見た瞬間にも、同じようにぼろぼろと泣いた。
(もしかしたら彼は、あの悪意あるでっちあげの「激太り」記事の存在を知っていたから、あえて暗闇から唐突に明るくして変わりない姿を公開する、っていう演出をしたのかもしれない。悪意を皮肉とユーモアで笑い飛ばすのが、昔から大好きな人だから)
わたしが生きてきた時間の半分くらいをずっとずっと待ち続けた人が、本当にそこに立って、わたしが大事に聴き込んできた曲を歌っているのだ。「いつかオザケンのコンサートに行きたい」という夢が、まさか叶うなんてもう思っていなかったわたしの、目の前で。

わたしの人生で一番衝撃を受けた素敵なコンサートが、ひふみよの初日。そこからは、『東京の街が奏でる』も、『魔法的』も、美術館でのコンサートも『春の空気に虹を架け』も行った。いつもチケット争奪戦に協力してくれる友達みんなありがとう。一緒に行ってくれる友達も。
わたしのあまりの熱の入れように、はじめは「宗教みたい…」と恐れおののいていた主人のことも、高校の友人たちにしたのと同じくじわじわと布教して、ファンに巻き込んだ。
いやもう、確かに宗教みたいだと自分で思う。彼の遣う言葉や行動にすべて考え抜かれた意味を見出そうとするわたしと、同じように血眼になっているファンの姿は、ファンでない人たちの目にそう映るだろうなって冷静に思う。普通ミュージシャンにこんなはまりかたは、しない。
でも仕方ない。生きてるのか死んでるのかも分からないかもしれないと思ってた人が、毎日Twitterを更新するんですよ?そして我々は、彼がかつて残した曲たちに言霊を感じながらずっと紡いで身体じゅうにしみこませてきたんですよ?
仕方ないじゃないですか、血眼にもなりますよ。

供給過多だ!助けて!!と叫びたくなるほどに毎日更新されるTwitterに震えつつ、しかしいつまでも幸せばかりではいられなかった。
あまりにも発表されないアルバムに、「もしやこの人、このままリリースする気がないのでは」「アルバムの作業に、もう飽きちゃったのでは」とにょきにょき不安が芽生え始める。
わたしはずっとアルバムが欲しかった。Twitterの更新頻度があんまり速くて、逆に不安を煽られた。
彼がお金のために活動している訳でないことは、もうとっくに分かっていた。Twitterをやることで軽く満足しちゃっているかもと心配になった。わたしはもうずっと、ずーっとこの人のことを心配しているから、今回もまた同じパターンで心配した。
でも、大丈夫だった。彼はまた軽快に、小憎らしいくらいのタイミングでサプライズを仕掛けてきた。

そのようにして、我が家に『So kakkoii 宇宙』がやってきた。待望の新アルバムだ。
湾岸2DAYSのチケットは争奪戦で、諦めかけていたところを「近くにいた人ラッキーチケット」の情報が流れてきて、勢い半有休であと7人で終了!というタイミングの新木場に、マーク外す飛び込みで滑り込んだ。たまたま一緒に並んだ人と仲良くなって、そのあとご飯にも行った。
アルバムとしてちゃんと聞きたくて『彗星』をあまり聴かないようにしていたら、全員で歌うからばっちり予習しとけ!とお尻を叩かれライブ当日の朝から必死になって聴き込んだ。めちゃくちゃ楽しかった。

ライブでオザケンさんは、ファンにものすごく自分の歌を歌わせる。ものすごい自信をもって、「歌えるよね?」と煽ってくる。
東京の街が~のときには、「これも、歌える?(おずおず)」って感じだったのに、途中のスキャットまでみんなバッチリだったので、今やすごい無茶ぶりを平気でするようになった。ホーンパートをスキャットで歌わせたりとか、まだ見ぬ新曲を歌え!と煽ったりとか。『No Woman,No Cry』か!
ひふみよツアーのときもそうで、「歌え!」と煽られたわたしたちは、あらん限りの声で大好きな歌を歌った。
もう15年も大事に聴き込み、どんなときも片時も忘れなかった、魂に刻み込んだ歌なんだということを、是が非でもステージの上の人に知ってほしかった。懐メロなんかではなく、ずっとわたしの中で大事に特別に思ってきた曲たちだと、教えたかった。

でも、10年も行方をくらませていたその人は、自分が作った曲たちの大きさを信じていた。その曲に惹き付けられた人が沢山いることも知っていたし、わたしたちが他のバンドやミュージシャンにうつつをぬかしながらも、小沢健二だけに心の中の特別な場所を残していると、多分分かっていたのだ。
そのことを信じながら旅を続けてきて、ライブの場で実際に、わたしたちがあらん限りの大声で伝えたその「特別感」はしっかり彼に届いて、だから彼はわたしたちのことを改めて愛し「本当の心は本当の心へと届く」と歌ってくれたのだと思う。
『アルペジオ』の歌詞を読んだとき、ああ、わたしの愛は報われたんだなあと本当に幸せに思った。

彼は、大切な友達に「消費される僕をからか」われたと歌う。
復活直後に出演した番組でも言っていたけれど、彼は消費されることを恐れたのだ。けれど「大衆音楽」として、人々の生活の背景になることも、同時に望んでいた。
大衆音楽は、音楽シーンの波の中に押し流されて、いつか「懐メロ」になっていく。それは、存在を消費されることとどう違うのか?
二律背反な期待と不安を抱えた活動を続けることは、ある種、嘘を抱えることに似ている。あれだけ「本当のこと」を考え、本当を求めた彼にとって、消費される覚悟で消耗品の音楽を作り続けることはできなかったのだろうと、今なら理解できる。当時は分からなかったけれど。
試したというと、言葉は悪いけれど、結局はそういうことなのではないか。わたしたちが歌い続けていることを信じて、彼は自己研鑽の旅を続ける。わたしたちはそれを待つ。「待つは希望」と彼は言う。種明かしをされた今なら、間違いなく希望だったと分かる。

長くなってしまって、すみません。

中学生のときに出会ったアーティストが、長い時を経てわたしに「ありがとう友よ、いてくれて」と語り掛けてくる。『薫る』は、『アルペジオ』や『その時、愛』などに歌われたのと同じく、わたしたちオザケンさんのことを信じて待ち続けた者たちへの感謝と賛美だ。
こつこつと日常の営みを続けながら、わたしたちは大事に彼の作った歌を歌い続けた。
資格試験の朝に『戦場のボーイズライフ』を聴いて自分をアゲた。
披露宴の入場曲に『強い気持ち・強い愛』を流した。
そのとき彼は、わたしのそばにいた。同じ時代のうねりの中で息をし、生活を送り、同じ歌を口づさんでいた。
モーツァルトやベートーベンと違って、小沢健二はわたしの生きる今を、同じように生きている。
そのことが「奇跡」だと歌う。たしかにそうだと、わたしは思う。

そして時は2020の手前の2019年末。
わたしと彼の時間軸は、ゲームマーケット会場でリンクする。
これこそが「奇跡」の瞬間だと今も思う。
わたしはずっと好きだった人に会い、想いを伝えた。しかも、しかも!「ミュージシャンとそのファン」としてでなく、「作ったものを遊んでくれようとする人と、作った側の人」として、だ!
対等な立場…いや、ミュージシャンとファンだって同じ人間であるのだから対等なのですが、元々彼がずっとずっとわたしたちを扱ってきてくれたよう、属性オザケンリスナーである生産者のひとりとして、彼の前に立てたのだ!!いや、あの超おもしろいゲームを作ったのはわたしではなく、わたしの敬愛する旦那なのだけれどそれにしたって、『薫る』で歌われるよう、日々の営みとして仕事をし、生み出していく者の一人として、彼の前に立てたことの、なんというか…もう、奇跡、だとしか。
あまりのことに、わたしの手は今も震えている。
「神様はいると思った」

信じて、好きでいれば、報われるっていうか違う、「報われる」なんてマイナスから出発する言葉では違くて。
生きることは希望なのだと、改めて知った。
オザケンリスナーだから、わたしは生きることに希望ばかりがあるのではない、つらいことや哀しいこともあって、涙もひっくるめて抱えて生きていくことが、いつか「本当のこと」に届くための過程であると、知っている。オザケンさんの作る曲に、そういうことをたくさん教えてもらったから。
日本もひっくるめた世界、ないし宇宙は、どんどん目まぐるしく変わっていく。いい変化もあれば、悪い変化もあるはずで、だけどそんな変化を面白がって、胸を張って宇宙を回そうと、彼は歌う。

わたしは今日も元気よく日常を生きよう。
またどこかで彼に会うことがあったとき、胸を張っていられるように。

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