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【エッセイ】無駄(1111字)

ネットの文章を読むか読まないかは15秒でジャッジされるので出だしの文章が大事だっていうようなXのポストを見たがハッキリ言う。その程度の忍耐力の人間に読まれるために僕は文章を魂を込めて書いているのではない。これを読んだ誰かひとりでいいので、記憶に留めてくれて、脳の構造を変えてくれればそれで本望だ。これは私がnoteやKindleで情報発信をはじめた頃からずっと変わらぬスタンスである。大勢に読まれなければ意味がないとかくだらない考えを元にしておるのならもうとっくにやめていなければならない。

「人生の経験に無駄なことは何ひとつない」というのが私が43年かけてやっと辿り着いた境地のひとつだ。それまでいろんなものを無駄だと断じてきた人生だった。でもある日娘たちと話していてふとこの考えに至ったのである。これは人生というものは多角的視点で観察しなければならないということに気づいたということと同義である。

たとえば。
①昔の知り合いに健康診断前に頑張ってダイエットをする人がいた。
②以前勤めていたブラック企業は工場見学前だけ製造場をきれいに整えていた。
③生徒の時に一夜漬けをしているクラスメイトがいた。私はこれらを愚かで無駄な行為と断じてきた。

多角的にそれぞれ解説していこう。

①健康診断とはそもそも病気やその予兆を見つけるための検査である。その日刹那、ベスト体重にもって行っていい数字が出ても何の意味もない。却って本来なら見つかっていた病気が見つからず治療が遅れてさらに悪化するかもしれない。しかし、ダイエットしたおかげで健康になる可能性もなくはない。
②工場見学前に外部の目を気にして普段していない運用をしても無意味だ。しかし、工場見学を機に製造現場はきれいになるってことはなくはない(一度もなかった)。
③定期考査は学習の習熟度を確認するテストである。一夜漬けで知識を詰め込んでも最終目標である大学入試で役に立たない。しかし、そうやってする徹夜の経験は社会人になった時に夜を徹しなければならないようなトラブル処理を乗り切る時に役立つかもしれない。

ものの見方とは地動説を例にとるとよくわかる。地上に立って観察するのか、宇宙からの視点で捉えるのかの違いである。それぞれで最も合理的で都合のいい考えを採用しているだけの話である。

現代社会は徹底的な無神論という新しい宗教が支配している。そのために多角的な視点が求められている。どこから見ても完璧の丸の球は存在しないと言うのが無神論である。

人生くらいのことは多角的視点で結構だと思う。私もそれは甘んじて受け入れよう。

しかし、心だけは違う。どこから見ても完璧な円を描く球なる存在が、確かにある。


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