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朝鮮銀行(4)密造ラッシュ

1894年(明治27年)8月、朝鮮の体制改革をめぐり、日本と清国との戦争が勃発した。

日清戦争である。

開戦直前、日本軍は京城の王宮を占領し、閔妃一族を追放すると、大院君を中心とする政権を樹立させた。

新政権は、8月21日に「新式貨幣発行章程」を発布。

五両銀貨を本位とする銀本位制で、通貨の単位は1両=10銭=100分(ぶ)とし、我が国の貨幣と比べると、葉銭1枚は2厘(りん)に、二銭五分白銅貨は5銭に、一両銀貨は二十銭銀貨に、五両銀貨は一円銀に相当していた。

また、その第七条には「新式貨幣が多額に鋳造せらるるまでは、しばらく外国貨幣を混用するを得る。ただし、本国貨幣と同質同量同価のものは通行を許す」という規定が付け加えられた。

当時の貨幣で「ただしがき」に合致するのは、日本の貿易通貨の円銀だけである。

朝鮮王朝による新貨幣の鋳造量は少なく、見本に留まる量であったため、結局、この「ただしがき」だけが生きる結果となった。

円銀が、朝鮮の法貨として正式に流通することになったのである。

これにより、円銀と交換できる日本銀行兌換券(だかんけん)も朝鮮国内で流通した。

こうして、日朝貿易は安定した状況に進み出したのである。

1897年(明治30年)9月、朝鮮は国号を「大韓帝国」に改めた。

この年の日本通貨の韓国での流通高は、300万ないし350万円に達していた。

当時の韓国内の貨幣流通量は1000万円程度と考えられ、日本の通貨が三分の一を占めたことになる。

内訳は、円銀が三分の二で、残りは日銀券であったが、我が国は10月1日に金本位制を実施し、円銀を回収することにしたため、韓国の実質的な本位貨幣となっている円銀の供給が、途絶することになった。

そんな時、1899年(明治32年)清国において、義和団の蜂起から北清事変が起きる。

円銀は、ことごとく流出してしまい、また日本銀行の一円兌換券も回収され、代わって市中に出回ったのは「新式貨幣発行章程」で定めた補助貨幣の二銭五分白銅貨であった。

銀流出の原因である北清事変は、在支那の民間人を救助するため、軍隊を支那に派遣するという事件であった。

軍を運用するには、現地での調達が必要となってくる。

食糧や必需品、労働力などである。

清国は銀本位制であったため、銀が大量に必要となった。

こうして、二銭五分白銅貨が多く出回ることになったのである。

葉銭の鋳造は1892年(明治25年)ころに中止され、1902年(明治35年)ころには、流通量も1000万元ほどから、500~600万元に減少していた。

一方、白銅貨の鋳造は1899年(明治32年)から急増し、1902年(明治35年)には典圜局(てんえんきょく)の鋳造が800万元、特鋳や私鋳が600万元、流通したといわれている。

両者を合算すると、1400万元である。

特鋳銭とは、宮中の収入に当てる目的で特定の者に鋳造を許可したものである。

また、特許料を取って許可した私鋳銭では、閔妃一族が多く鋳造したそうである。

遂には、巨額の資金を投じ、精巧な機械と地金を備えて、大規模に鋳造をおこない、不正の巨利を得る者も出てきた。

いわゆる偽造通貨である。

『韓国に於ける第一銀行』の記述によると、「あたかも無政府の状態を呈(てい)せり」という状況であったという。

白銅貨の偽造には、日本人も多分に関わっていたようで、当時の雑誌に「大坂京都等に六十箇所内外の偽造所あると聞く」と掲載されたりした。

事ここに及び、遂に日本政府も動いた。

1902年(明治35年)11月、「韓国白銅貨私鋳取締」の緊急勅令を発布し、税関や警察による取締を厳密したのである。

ちなみに、白銅貨の種類は576種もあった。

しかし、その流通は片寄っており、京城や平壌など朝鮮半島北部では白銅貨が市場を席捲し、銀貨や葉銭(ようせん)を駆逐したのに対し、南部は葉銭だけが流通して、白銅貨の流通を拒むという怪現象がおこっていた。

理由は分からないが、不思議な話である。


参考文献「朝鮮銀行」 多田井喜生著 ちくま学芸文庫


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