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日本傾国中(9)

祖国が傾いている。

日本が滅びようとしている・・・と言っても、過言ではないと思う。

その原因は何で、何が必要なのか。

思うところを語っていきたいと思う。


教育が根本にある

これまでは、フリーセックス運動が、どのような影響を与えたのか語ってきたが、今回は、個人主義について語っていきたいと思う。

以前、語った通り、戦争終結後、アメリカの文化が流入する中で、個人の自由が謳われ出した。

実のところ、我が国の自由とアメリカは関係無い。

だが、これまで自国に自由が無かったと思い込んでいた人々は、自由は、アメリカより、もたらされたモノと勘違いしてしまった。

こうして、アメリカが自由の模範となった。

この意識が、フリーセックス運動を許容してしまった一因である事は間違いない。

また、個人の自由という発想が、フリーセックス運動の後押しをした事も、想像がつく。

臍から下の事について、他人が、どうこう言うべきではない・・・と言われれば、その通りと言わざるを得ないからだ。

だが、性欲の真の目的は、繁殖行為だ。

将来の子供たち、すなわち、未来の大人たちに多大な影響を及ぼす事なのだ。

しかし、それが抜け落ちていたように思う。

当時の人々も、将来の子供たちに影響を及ぼす事は分かっていたと思うのだが、どうして、それ以上に、個人の自由が、優先されてしまったのだろう。

その答えとして、私は、戦争に対する反動だったのではないかと考えている。

戦時中、四年以上もの間、人々は、個を殺して生きていた。

欧州においても、似たり寄ったりだ。

ようやく訪れた平和な世界において、それまで抑圧されていた個が、暴れ出したとしても、不思議ではないと思う。

解放感が、人々の思考に影響を与えたのではないだろうか。

これまでは全体主義の時代だった。

だからこそ、これからは、個人主義の時代だと錯覚してしまったのかもしれない。

そして、一番の問題は、自由について、しっかりと議論されなかった事だ。

あれがしたい、これがしたい・・・そんな事ばかりで、本質を見ようとはしなかったのではないか。

本質とは、以前も語ったが、自由には責任が伴うという事だ。

自らが決断し、自らが責任を負う。

だからこそ、自由なのだ。

だからこそ、国民主権なのだ。

政治家の悪口を言う人がいるが、そのポンコツ政治家を選んでいるのは、国民である事を忘れてはいけない。

国民がポンコツだから、政治家もポンコツなのだ。

これが、自由の代償なのだ。

全ての責任は、自分が負う事になる。

しかし、我が国は、そして、マスコミも、自由の恐ろしい面を伝えて来なかった。

良いモノ、素晴らしいモノという宣伝だけがなされてしまった。

国民は、おもちゃを与えられた子供のように扱われた。

そして実際、子供のように、それを扱った。

◯◯をする自由、◯◯をする権利!

異を唱える者には、時代遅れや差別という言葉で、これを黙らせた。

ドラマ「金八先生」で、放送室から「俺たちは、腐ったミカンじゃない!」と、生徒が叫ぶ場面が有る。

激しい主張で、正統性を唱えた彼らだったが、その後の歴史を見た時、答えは自ずと明確になる。

結局、彼らは、腐ったミカンだった。

ミカン箱に、腐ったミカンを入れると、他のミカンも腐ってしまう。

彼らが、腐ったミカンではなく、真っ当なミカンだったなら、学級崩壊も、モンスターペアレントも、不登校も、誹謗中傷も、いじめによる自殺も、バイトテロも、寿司屋の醤油を舐める輩も、援助交際も、十代女性の堕胎も、出来ちゃった結婚も、児童虐待も、パパ活も、引きこもりも、ニートも、5080問題も発生していなかったはずだ。

松本人志が、あんな事件を起こす事も無かったはずだ。

渡部建が、公衆トイレで不祥事を起こす事も無かったはずだ。

だからと言って、個人の自由を無くそうという話ではない。

個人の自由は大切だ。

そして、守られねばならない。

だが、自由の行使には、責任が伴う。

学校教育で、それを教えていく必要が有るだろう。

若者には、純潔の意識を持たせるべきだ。

1950年代までは、浸透していた価値観なのだ。

取り戻す事は、不可能ではないと思う。

また、性交の方法を学ぶよりも、父として、母として、如何にあるべきかを学ぶべきだ。

そして、家族の形には、理想を設けるべきだ。

かつての家族の有り方を取り戻す・・・といった方が良いだろうか。

家族の形には、いろいろな形が存在するとか、摩訶不思議な事を言うべきではない。

一人一人違うのだから、それぞれの形になるのは、自明の事だ。

それよりも、あるべき姿を掲げる事が重要だと思う。

実際、前代の父や母が存在していた頃、子供たちは幸せだったし、不安を感じていなかったのだから・・・。

だからこそ、昭和三十年代を経験した人は、今になっても懐かしむのだろう。

私にも、子供時代が有るが、懐かしむという感覚は無い。

昭和三十年代を知らない私には、理解出来ない部分もあるが、今と比べて理想的だったという事は間違いないだろう。

とにかく、どういう形であれ、子供たちに、いずれ親となる意識を持たせる事は大切だと思う。

そして、それは、動物学的な親ではなく、社会学的な親でなければならないと思う。

さて、この八十年で、我が国が学んだ事は、何だろうか。

私の導き出した答えは、一つ。

教育が根本にある・・・という事だろうか。

教育によって、人は、人間にも、獣にも、なり得る事を証明した事くらいだろうか。

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