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日本傾国中(8)

祖国が傾いている。

日本が滅びようとしている・・・と言っても、過言ではないと思う。

その原因は何で、何が必要なのか。

思うところを語っていきたいと思う。


順番に崩れていった

性欲の制御が外れると、社会が乱れていく事について、戦後史を紐解きながら解説させてもらった。

そして、その発端が、女性の社会進出という言葉を隠れ蓑にした、フリーセックス運動にあった事も語らせてもらった。

さて、現在の状況は、女性が求めた結果なのか、それとも、男性が求めた結果なのか。

私の結論では、どちらでもなく、マスコミを中心とする、フリーセックス運動推進派が求めた結果だと考えている。

彼らの煽動によって、童貞の概念は変化し、男の子は豹変した。

彼らの煽動によって、恋愛への憧れは肉の欲に昇華され、女の子は豹変した。

男女相互の影響もあっただろうが・・・。

とにもかくにも、煽動したのは、どういう人たちか。

これまで、ぼかした表現になっていたが、明確に表現すると、左翼活動家となる。

普通に考えれば、伝統や慣習を守ろうとするのが保守なのだから、そうでない彼らは、革新派で、左翼という事になる。

ただ、現状は、彼らの思い通りの世の中になっているので、右と左は、逆転しているとも言えるが・・・。

では、左翼活動家は、どのようにしてマスコミに浸透していったのか。

その手がかりは、安保闘争にある。

いわゆる、60年安保だ。

左翼活動をおこなった学生たちは、まともな就職先を得られなかった。

そんな事情もあって、彼らは、マスコミへと流れていったのだ。

そう考えると、最大の原因は、我が国が、マスコミの制御に無頓着だった事かもしれない。

私は、政府がマスコミを掣肘するのが悪い事とは思わない。

憲法にも、はっきりと書かれている。

自由は、公共の福祉に反しない限り、保証されると。

政府は、公共の福祉に反すると判断した場合は、マスコミを制御すべきなのだ。

当然、マスコミは反論するだろう。

大いに反論すれば良い。

政府は、NHKを国営放送として、主張すれば良い。

そして、国民が両者の意見を聞いて、最終結論を出せば良いのだ。

それが、本来の国民主権ではないだろうか。

とにかく、1960年代以降、言論の自由の名の下に、有害情報が垂れ流され、青少年を蝕んでいった。

更に、フリーセックス運動は、男女間の関係のみならず、男と男、女と女の関係など、様々な方面へと展開されていく。

ただ、男と男の関係は、遥か昔から存在した。

我が国でも、男色と呼ばれ、武士の嗜みとされた時代もあった。

女と女の関係も、記録には残ってないが、昔からあったと思われる。

なぜかと問われると、同性と肉体関係を持つのは、人間だけではないからだ。

ピグミーチンパンジーのボノボは、不安に駆られると、オス・メス関係無く抱き合い、性交の動作をおこなう事が知られている。

この事実から想像を膨らませば、人間における、同性間の関係も、同じ理由が上げられると思う。

すなわち、安心感を得る為の相手として、同性を選んでいると考えられるのだ。

社会の常識として受け入れるのは、抵抗があるが・・・。

ボノボにおいても、その時、近くにいたのが、たまたま同性だったという具合で、必ずしも、同性だけを選んでいる個体が存在するわけではない。

自然の摂理から逸脱した行為である事は間違いないと思う。

しかし、不安を解消する手段として考えると、別の事実が見えてくる。

同性間での肉体関係を望む人は、異性では、安心を得る事が出来ないという事実だ。

なぜ、彼らは安心を得られないのか。

また、同性と関係を持つまでにはいかないが、あまり異性とも関わらない、いわゆる草食系男子の存在も、異性から安心を得られない理由に行き着くのではないか。

草食系女子も、同じ事が言えるだろう。

では、彼らが不安になっている原因は、どこにあるのだろう。

そこで、人が、最初に安心を得る相手について、考えてみたい。

最初に安心を得る相手となれば、それは、親しか考えられない。

更に、初めて見る異性も、親という事になる。

男の子の場合だと、初めて見る異性は母親となり、女の子の場合は、父親が初めて見る異性となる。

フリーセックスの蔓延によって、男も女も変わったという事は、必然的に、父も母も変わったという事になる。

子供たちは、そんな両親の姿を見つめながら成長していく。

それが当たり前だと、刷り込まれていく。

フリーセックスは、簡単に言えば、やりたい放題なのだから、子供たちは、やりたい放題になる。

1960年代に始まった、フリーセックス運動の影響を受けた子供たちが、思春期を迎える、1970年代後半から1980年代に校内暴力が起きるのは、当然の結果だろう。

やりたい放題したくても出来ない鬱憤が、彼らを爆発させたのだ。

1990年代に入っていくと、学級崩壊が始まる。

教師たちは、やりたい放題の子供たちを抑える事が出来なくなった。

教師たちも、やりたい放題の世界で育った人たちなので、何を抑えるべきか、どう抑えるべきか、分からなかったのだろう。

2000年代になると、引きこもり(ニート)という存在まで現れる。

ついに、家庭が崩壊した。

順番に壊れていった。

社会が崩壊すれば、教育現場も崩壊する。

教育現場が崩壊すれば、家庭環境も崩壊する。

こんな、やりたい放題の人たちが、初めて見る異性となる子供たち。

時代を経るにつれて、崩壊が進んでいくのは、当然の事だろう。

安心を得られず、草食系やニートに走る人が現れても不思議ではない。

様々な問題は、全て連動している。

であるにも関わらず、当事者や被害者の心と向き合うだとか、枝葉の部分しか見ていないのが、現状ではないか。

もっと、根本を見るべきだと思う。

松本人志事件も、枝葉の部分だけを見ているように思う。

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