久我神社(京都市北区)賀茂建角身命を拝す
京都市北区紫竹下竹殿町にある久我神社。
延喜式に載る古社であり、祀られているのは賀茂県主の祖神である賀茂建角身命。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の南南東約1キロの位置に鎮座する久我神社は現在、上賀茂神社の境外摂社となっている。
境内の東西に鳥居が建ち、本殿は南を向いている。
本殿は一間社流造りで上賀茂神社の境内で見られた摂社末社と同じ建築様式。
本殿と拝殿は江戸時代、寛永の造替という。
拝殿は切妻造りの妻入りで左右に庇がついている。
本殿の北には森が残る。久我神社を大宮と呼び、通りの名にも残る。大宮ならば、かつてはもっと境内は広かったと思われる。
中世には氏神社と呼ばれていたようなので、そのころには賀茂氏の中心的神社は上賀茂神社へ移行しており、久我社は地域密着型の神社に変質していったのかもしれない。
明治になって旧称に復した。
『山城国風土記』逸文によると賀茂県主は大和の葛木から南山城の岡田へ移り、ついで桂川と賀茂川の合流地点あたりに移動し、やがて賀茂川を北上して「久我の国の北の山基」に移ったとしている。
久我は、このあたり一帯の古称といわれる。その場合、賀茂氏の勢力が強くなるにしたがい、旧来の名称である久我の名は廃れていったとみられている。
また別の説もある。
桂川と賀茂川の合流地点に近い京都市伏見区にも久我神社があり、「久我」の名称は伏見区のほうが本拠地で、氏族が移動した際に地名も移ったとする説がある。
ただし伏見区の神社は「くが」であるが、地名は「久我」と書いて「こが」と読む。
「こが」を「久我」と書いていたものの、時代が下ると本来の読みかたを忘れて、漢字の表記にひきずられ「くが」と読むようになった可能性はある。
伏見区の地名が移ってきたのは神社だけだとすると、北区に久我の地名が残ってないのもうなずける。
御祭神の賀茂建角身命は神武天皇の東征に際して道案内をした八咫烏ともいわれている。
そのため、久我神社の御神徳は交通安全、航空安全とされている。ひいては人生の道案内もお願いしたい。
と、書いてはみたものの、あまり御神徳とか御利益とかには関心がない。神社仏閣によくお参りさせていただいておりますが、たいていはご挨拶程度で済ませています。
なぜなら、こうして無事に暢気に恙なく日々過ごしていられるのは、すでに御神徳であり御利益であるとも思われる。
今回は総ルビに挑戦してみた。たぶんもうしない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?