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私自身というのは

 久しぶりの大雨。朝は小雨程度だったのに、バイトが終わって帰る頃には大雨になっていた。今日もこれからバイトだ、2回目で何をするか分からないし不安だ、と沈んだ気持ちで外に出る。扉を開けた瞬間に感じる雨の匂い!それは、少しではあるけれど私の心を晴れやかにした。雨の匂いは、何となく嬉しい匂いなのだ。

 今日は何を書こうか、悩んだけれど。とにかく考えたこと思ったことを今日も書くことにする。
 昨日……一昨日?そのくらいに、公共の勉強をしていた。公共の教科書で初めに取り上げられていたのは“青年期”の話だ。青年期の説明として、教科書にはこう書かれている。

……青年期という。青年期は、単純に年齢で区別されものではない。この時期に、人は自我の目覚め、他人とは異なる自分に気付き、自分はどんな人なのか、どんな人でありたいか、と自分自身に問いかける経験をする。

東京書籍「公共」

 私だ!私すぎる!これを読みながらそう思った。私は典型的な青年期の状態なのだろう。ふと友人と比べてみては、「はて私は一体どんな風になりたかったんだったか」と考える。「私はやはりあの子とは違うのだ」と感じる。それが酷く苦しかった。“自分”というものが見えないことに、ほとほと苦しい思いをしていたのだ。
 けれども、そんな思いは多かれ少なかれ、皆しているということ!生涯の中で経験をするのだということ!その事実が、知識が、私を安心させる。1人ではないこと、異常ではないことを感じさせる。……そして、「私だけが苦しんでいる訳ではないこと」に絶望する。
 私だけが苦しんでいるのならば、医者や周囲の人間は私に手を焼くだろう。他の人よりも気にかけてくれるだろう。けれども、そうでは無いこと。それにまた絶望するのだ。
 その感覚は、「誰かに心配して欲しい、構って欲しい」という考えが私の根底にあることを示す。なんと醜いだろう……いえ、こんなことはきっと多くの人が感じていること。けれども、けれども、私のこの感情は、私から見れば醜いものに見えるのだ。
 他者がそんな感情を持っていたら。さらけ出されていたら。そう考えて見ても、全く醜いとは感じないのに。私が私を見ると、どうしてこうも醜く汚く見えるのだろう。これは永遠の課題のように思える。
 いやきっと、私には私へのフィルターが掛かっているからだろうと思う。“自分は醜く傲慢な人間である”というフィルター。私の人生は私がよく知っているのだ。私がしでかした失態も、積んできたはずの徳も、バレていないと思い込み続けている悪行も。だからこそ、そんなフィルターが掛かるのだ。
 一体このフィルターが外されるには、あとどれほどの月日が必要なのだろうか。何年、何十年、いいえ死ぬまで外されることの無いものなのかもしれない……

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