自己の中の他者について

 クズはニートになった。
 無断欠勤したバイト先には、結局一度も顔を出すことなく、そのまま辞めてしまった。無断欠勤を続けている間、意外にも、数人のバイト仲間がLINEで連絡をくれ、僕はそれを1週間以上既読無視した後でなんとか返した。店長や社員さんともLINE上でやり取りをし、退職が決定した。

 と、いう話をめいちゃんにしたら、すごく真剣に諭された。
 めいちゃんとよく行く新宿西口のサンマルクカフェで、ふと、まあ一応、言っておいたほうがいいかな、くらいの気持ちで「バイト辞めちゃったのよ」と言って、無断欠勤から退職までの経緯をへらへらと説明した。すると、めいちゃんは途端に真剣な表情になって僕を問い正し始め、それまでの和やかな雰囲気から一変して、そのサンマルクカフェは、まるで孤独な森の中で作った擦り傷みたいにヒリヒリした空間になってしまった。

 「他者こそが自分の問題の答えなのではないか」と、めいちゃんは森の中で言った。しかし、その時の僕には、その言葉の意味を理解する余裕はほとんど無かった。自分の問題を、あまりに突然、えげつないほどに深く掘り起こされたので、僕はそのカフェの席で、ただ泣くのを堪えるだけで精一杯だったのだ。
 僕がその言葉の意味を本当に理解したのは、めいちゃんと別れた後、帰り道の細い路地を歩いている時だった。意味が分かった時、僕はその路地の途中で立ちつくし、思わず持っていた紙袋を落としてしまった。23年間の人生で、ずっと分かっていなかったことの正体が、分かった気がした。それはめいちゃんが言ったとおり、とても単純なことだった。
「他人のことを考える」
それが、僕に圧倒的に欠けていた視点だった。

 小学校6年生の時、風呂で自分の裸を洗いながら、もしかすると、この体は自分の体ではないのかもしれない、と思った。この腕が「自分の」腕だと、この脚が本当に「自分の」脚だと、誰が証明できるだろう。それは自分しかいない。でももし、その「自分」が幻を見ているとしたら……。
 今思えば、その瞬間に僕は、後戻りできない楽園に片足を踏み入れていたのかもしれない。
 中学に上がって、「方法的懐疑」というロジックを知り、僕は深く頷くことになった。他者の存在を疑い、見えている物を疑い、聞こえている音を疑い、肉体感覚さえも疑い、行き着く先に存在するのは、疑っている「自分」ただ独り。僕が小学校6年生の風呂場で体験したあの感覚は、400年前に既に言語化されていたーー「我思う、故に我あり」。
 こうして、僕は思春期を通して、独我論的世界の扉を開き、その中に入り、そして、後ろ手でぴったりと扉を閉めた。我だけが存在する静かな世界では、誰に何を言われても幻聴で、誰をどう傷つけても幻覚だった。他者のいない楽園。
 時は流れ、僕は大学に上がり、そしてその大学を中退した。海外で生活し、アルバイトをした。その時々の交友関係があり、その中でいくつかの恋愛も経験した。しかしその間もずっと、精神的な意味においては、僕は独我論的世界から外に出ることはなかった。我だけの楽園に慣れすぎて、もはや扉の外に世界が存在することさえ、すっかり忘れていた。
 そして、中学時代に揚々と掲げた楽園の標語は、自分でも気付かないうちに、決定的に変質していた。まるで最初の1度の角度の違いが、時を経て、取り返しの付かない方向の違いになってしまうように。
「我思う、故に我あり」ーー「他者の思い分からず、故に他者なし」。

 いや、と、紙袋を拾い上げ、細い路地を抜けて、僕は強く思った。もうすぐで家に帰り着く。
「いや、他者はいる」。僕の中に、確実に、他者が存在している。数は少ないが友人がいる。思い出の恋人がいる。そしてもちろん、めいちゃんがいる。その人たちは皆、僕の中で確実に生きている。
 ーーと、いうことは。
 と、いうことは、それと同じように、僕も、他者の中で生きているのかもしれない。きっとそうだ。だからこそ、バイト仲間たちは僕にLINEをくれたのだ。彼らの中に僕が存在していたから。

 家に帰り着いて、僕は真っ先に紙袋を開けた。めいちゃんからの早すぎるクリスマスプレゼントは、手足の生えた不思議な雪だるまの人形に入った、チョコレートの詰め合わせだった。お返しを今、考えている。

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