見出し画像

宮台の共同体論①

〇はじめに

僕が「宮台の共同体論」と呼ぶものは、いささか自分の関心に引き寄せすぎている。実際は、宮台真司は現代社会の問題状況や処方箋として共同体について言及するのであり、共同体を主題として論じているわけではない。
 
それでも、僕は自分の関心から「なぜ共同体は衰退してきたのか」「共同体がなくなって何が問題なのか」「なぜ共同体が必要か」「どうすれば共同体を再構築できるのか」といった視点で宮台の議論を眺めると、これらの問いすべてに明快に、一筋の解を示してくれていると感じたのである。
 
だから、自分の関心であるコミュニティ=共同体という視点から出発して、宮台の議論を自分なりにまとめてみたいと考えた。それが「宮台の共同体論」とひとまず呼んでいるものである。
 

0 イントロダクション=日本と世界のヤバイ状況


本題に入る前に、イントロとして日本(に限らない世界)で起きている危機的状況の一部を示す。宮台が代表例として示すのは孤独や孤独死の問題である。
 
「第6回孤独死現状レポート」(日本少額短期保険協会)によると、2015年4月から2021年3月までの間に、5543人が孤独死している。そのうち83.1%が男性で、20代から50代の現役世代の割合は40.0%にのぼる(それぞれ4.2、6.4、10.1、19.2%)。孤独死に占める自殺の割合は10.9%であり、全国の全死因における自殺の割合1.4%と比べてその割合は突出して高い。
 
内閣官房孤独・孤立対策担当室の出している「人々のつながりに関する基礎調査(令和3年)」によると、孤独感を感じることが「しばしばある・常にある」あるいは「時々ある」と回答した人は16%である。「しばしばある・常にある」と回答した人には、男女差はなく、30代の回答割合が最も高い(7.9%)。同じく未婚の人(9.6%)、特に未婚の男性(10.8%)、同居人のいない30代(15.0%)などで孤独感を強く感じている人の割合が高い 。
 
また同調査でも、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人では心身の健康状態が「よくない」と回答する人が36.9%と顕著に高いことが示すように、人にとって孤独は鬱などの症状を強め、老化を早めたり、免疫システムを弱体化させる。孤独は肥満の2倍致命的で、タバコを一日一パック吸うのと同じ悪影響があるという研究データもある(参考:「孤独」.Kurzgesagt)。
 
このように現代ではますます多くの人たちが孤独に悩まされ、その行きつく先は孤独死かもしれない。情報機器はかつてないほど発達し、いつでもだれとでも繋がることのできる現代において、私たちはなぜここまで孤立し、孤独死におびえなくてはいけないのだろうか 。
 

1 社会の変化=共同体の空洞化


宮台はまず、ここ数十年の間に起こった社会の変化の分析からはじめる。キーワードは〈2段階の郊外化〉=〈システム〉全域化=〈生活世界〉空洞化=共同体空洞化である。
 
〈2段階の郊外化〉 とは、60年代に起きた〈1段階めの郊外化〉=団地化と、80年代に起きた〈2段階めの郊外化〉=コンビニ化である。
 
〈1段階めの郊外化〉とは、60年代に郊外に多くの団地が建設されたことによるもの。それによって各地の農村などからその地域に縁がなく、互いに関わりのない新住民が移り住み、それ以前にはあった地域住民同士の交流が起こりづらくなった。テレビや電話が一家に一台の時代になったことで、テレビのある家に集まったり電話の呼び出しをしあったりなど、地域住民が集まって何かをする機会が減少=地域が空洞化した(注1)。地域が空洞化していくにしたがって人々の日々の活動は家族の中へ内閉化されていった(一緒にテレビをみるのも御飯を食べるのも家族とだけ)ため、〈1段階めの郊外化〉=団地化=地域空洞化×家族内閉化である。
 
〈2段階めの郊外化〉は、それまで地域や家族が担っていたことが市場や行政に担われるようになる=〈システム〉化である。地域や家庭で子育てしていたのが行政の運営する保育園に頼るようになったり、コンビニが普及したことで母親が毎日料理をして家族みんなで食べることがなくなったり(個食化)と、人々が生活の多くを市場や行政に頼るようになった。個食化に加えて、テレビや電話も一家に複数台置かれるようになり「個室化」が進むと、家族の中ですら共通の話題がなくなっていく(=家族空洞化)。これが〈2段階めの郊外化〉=コンビニ化=家族空洞化×〈システム〉化(市場化・行政化)である。
 
〈2段階の郊外化〉は抽象化すれば〈システム〉全域化=〈生活世界〉空洞化と呼ぶことができる。
従来、私たちは地域商店街的な顔の見える〈生活世界〉を中心に暮らしていた。そこではお互いが知り合っている=記名的であるがゆえに、「あの人のためにがんばろう」という「善意・内発性が優位」の入替え不可能な関係(友達や知り合いが“その人”だからこそがんばろうと思う、別の誰かではダメ)であった。
それが暮らしの中に〈システム〉が浸透してくると、デニーズ的(チェーン店的)=「役割・マニュアル優位」の関係性となっていく。そこにはサービスの売り手と買い手だけがいて、同じサービスと同じ金額のお金がやり取りされればそれを誰が行ってもいい、つまり役割がこなせれば誰でもいい入替可能な関係であり、誰でも役割がこなせるようにマニュアルが重視される。
 
上述したようにここ数十年の社会の変化は、〈システム〉が全域化するのと入れ替わりに〈生活世界〉が空洞化してきたプロセスである。言い換えると、人々の関係性は記名的で善意・内発性が優位な入替え不可能なものから、匿名的で役割・マニュアル優位な入替え可能なものへと変化したのである。
 
※補足として、宮台は90年代後半から見られる〈3段階目の郊外化〉という段階も指摘している。〈3段階目の郊外化〉はケータイ化=人間関係の空洞化×インターネット化(SNS化)である。
〈2段階の郊外化〉を前提に、共同体を失い尊厳を欠いた人々が、自己防衛(自己のホメオスタシス)ゆえに自分に不都合な情報を遮断するようになる(見たいものしか見ない営み=フィルターバブル)。
そこにケータイ化=インターネット化が重なる。インターネットコミュニティの人間関係は見たいものしか見ないつまみ食い的コミュニケーションを助長。人間関係におけるわずらわしさを回避するようになり、対人能力の退行や未発達が進む。
また、インターネット・コミュニケーションにおける、「過剰さ」が「イタイ」と表現される状況に接し、疑心暗鬼化。「過剰さ」を隠すべく①本当に好きなものの話、②政治の話、③性愛の話が回避されるようになる。
これにより「KYを恐れてキャラを演じる」「過剰さを恐れて心を打ち明けない」営みが蔓延。コミュニケーションが「キャラ&テンプレ化」する。
それが「関係の表層化」=「関係性の忌避」を招来。「個人空洞化」=「人間関係の空洞化」を帰結する。これが〈3段階目の郊外化〉=ケータイ化=人間関係の空洞化×インターネット化(SNS化)である。
 

2 人の変化=〈感情の劣化〉


上記の社会の変化(〈システム〉全域化=〈生活世界〉空洞化)によって、人々の〈感情の劣化〉が起こるとされる。
これは「人々が〈システム〉世界(市場と行政)を頼るほど、人を頼らなくなって自動的に感情が劣化する」という、アダム=スミス→マルクス→ウェーバーという伝統的な思考である(注2)。
 
ここで言う〈感情の劣化〉とは、損得計算だけでなく相手のことも考えて物事を判断できることや、決められたルールでも苦しんでいる仲間がいればその法を乗り越えようと考えることができるという「感情の働き」(ルソーでは「ピティエ」(注3) 、アダム=スミスでは「同感能力」にあたるのが「感情の働き」だと言える)が弱まることを指す。
 
まとめると、〈生活世界〉における顔の見える入替え不可能な人間関係から、〈システム世界〉の匿名的で入替可能な人間関係ばかりを頼るようにシフトしたことによって、人間関係の希薄さゆえに「まともな感情の働き(ピティエや同感能力)」が獲得されなくなった、と言えよう。
 
〈システム〉化=〈生活世界〉の空洞化によって他にも、外遊びの減少による共同身体性(同じ事物に同じようにアフォードされること)の消滅=共通感覚の消滅が感情の働きの分散を強めることや、不安や鬱屈による〈自己のホメオスタシス〉(注4)の前景化に伴う生身のコミュニケーションの減少(=関係性の忌避) 、親戚のおじさんや近所の変なおじさんとのナナメの関係の消失、社会の過剰流動化による人の「(職業上の)入替可能化」による尊厳の喪失、などが〈感情の劣化〉の要因となり得る(いずれも多様かつ記名的な人間関係の縮減、あるいは〈社会の外〉でのシンクロの欠如という現象)。
 
では、人々の〈感情の劣化〉が起こると、一体どんな問題があるのだろうか。それを象徴するのが「感情が壊れた人間による動機不明な犯行」である。
 
2008年6月8日に起こった「秋葉原通り魔事件」。当時、25歳だった元派遣労働者の加藤智大が、日曜日の人出でにぎわう東京・秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んで通行人を次々にナイフで刺し、7人を殺害、10人に重軽傷を負わせた。
「黒子のバスケ脅迫事件」、2012年から翌2013年にかけて、人気漫画『黒子のバスケ』の作者の出身大学に硫化水素入りの容器が置かれたり、同作品関連のイベントが開催される予定だった会場などに脅迫状が次々に送り付けられた。
 
ここでの犯人たちは「感情が劣化した」人間と言える。多様な人間関係に包摂されてこなかったがゆえに、画一的で貧しい物差し(有名大学、有名企業に入れるかどうかが人生の勝ち負けを決めるなどといった価値観)しか持たなかったり、派遣労働などの過剰流動性にさらされることで自分自身が「入替可能な存在」としか思えない、がゆえに他人のことも「入替可能な、誰でもいい存在」としか思えないなど、かつてではありえなかった感情の働きを示してしまう人間である。そうした〈感情の劣化〉が、「誰でもよかった」というタイプの動機不明な犯行につながっていくと考えられる。
 
しかし、〈感情の劣化〉問題の行きつく先はそうした例外的な凶悪犯罪だけだろうか。そうではない。ヘイトスピーチの横行や高齢者クレーマーの増加といった問題も〈感情の劣化〉問題とつながっている。孤独で不安を抱え、自分のことしか考えられなくなってしまった人間が、その不安を埋め合わせるために神経症的な症状として排外主義に陥る。高齢者クレーマーにしても、退職後に会社という居場所がなくなり、さらに単身者である場合、多くの高齢者が孤独にさいなまれることになる。その不安を埋め合わせるために「八つ当たり」的な悪質クレーマーとなってしまう。
 
最後にもう一つ、根深い問題が示される。〈感情の劣化〉した人々は共同体(=〈生活世界〉の相互扶助的な人間関係)の存続にコストをかけることよりも、目先の損得計算から〈システム〉を利用することを選ぶ(注6)ため、共同体を空洞化させる。つまり共同体空洞化→〈感情の劣化〉→共同体空洞化→・・・という循環構造が現れてしまうのである。
 

★ここまでのまとめ


ここまで、孤独や孤独死の問題を導入として、現代にそのような深刻な問題が蔓延している理由を考えてきた。まず社会がどのように変化してきたかを観察し、〈2段階の郊外化〉によって〈システム〉の全域化が進み、入れ違いに〈生活世界〉=共同体が空洞化してきたことを述べた。次に人の変化として、〈生活世界〉の人間関係ではなく〈システム〉に依存するようになった人間は「感情が劣化」し、孤独からくる不安を抱え自分のことしか考えられなくなった人間が、動機不明の犯罪やヘイトスピーチ、悪質なクレームに手を染めてしまう問題を指摘した。
 
ここまではいわゆる「現状把握」に近いものである。今後、私たちが何をどのようにしていけばいいのかという処方箋については最後に示されるが、その前に、その指針となる理想の社会、目指すべき社会について議論する。
 

つづく

 
[注釈]
注1 地域住民同士が「僕たちは仲間だ」「私たちは同じ世界に生きている」と思えることが、地域共同体の条件。仲間意識を育み維持するのは共通の「体験」。生活の中でシェアされる共通の体験が減少することは、仲間意識を維持できなくなり、共同体としての体をなさなくなる=地域の空洞化である。
注2 アダム=スミスは「道徳感情論」において、市場原理が適切に働くには人々に「同感能力」(困っている人からは買いたたくのではなくむしろ高く買うなど)が備わっていることが前提とした。マルクスはそれに対して、資本主義システムが人々の道徳感情を掘り崩すことを看破。ウェーバーはマルクスの論理を行政官僚制に適用し、行政官僚制における人の入替可能化=没人格化が感情の劣化を招くとした。
注3 ジャン=ジャック・ルソーは、民主制にとって「個人が、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考える」こと、ある政治的決定について「自分はいいが、あの人にとってはどうだろう」と想像でき、そのことが気にかかるという人々の感情的能力が不可欠だとする。これをピティエという。
注4 〈自己のホメオスタシス〉とは、「自分らしい自分でいたいという欲求や実践」。その暗黒面としては認知的整合化や確証バイアスなどの防衛機制に近い。人々は自分らしい自分でいるために、今の自己が揺らがないように(傷つけられないように)、都合のいい情報やコンテンツばかりを摂取する傾向にある。
注5 フロイトの定義による神経症とは、「不安を埋め合わせるために行われる無意味な反復行為」である。根本的な問題解決にならないのに、特定の人種にヘイトを向け続けるヘイトスピーチもこの一種と言える。
注6 目先の損得計算だけなら、お金を払ってサービスを受け取るという〈システム〉の利用が効率的。共同体維持には煩わしい人間関係がつきものなので、感情の劣化した人々はそこをスキップしようとする。
 
[主な参考資料]
『経営リーダーのための社会システム論』
『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?