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走り出してしまえば、案外どうにかなるのかもしれない

ゆっくりと湯船に浸かっているとき。
キッチンで食事の支度をしているとき。
子どもと一緒に散歩をしているとき。
無意識のうちに、頭の中で言葉を紡いでいることがある。ただの単語の羅列ではない。きちんと意味を持った文章が脳内を忙しなく走る。でもそれは頭の中にあるだけで、いつか自分の記憶力が及ばなくなった頃に消えて無くなってしまう。

そうした儚い言葉たちを、きちんと記録できないだろうか。noteの更新を再開した時には気がつかなかったけれど、もしかしたらこんな気持ちが心のどこかにあったのかもしれない。

noteの更新を頑張ろうと思ったのは、今回が初めてじゃない。これまでに何度も同じ決意をして、同じ数だけそれを裏切ってきた。その繰り返しに疲れて、次第に「自分が好きなことを自由に書きたい」という気持ちにも蓋をするようになってしまった。

仕事じゃない。やらなきゃいけないわけじゃない。書かなくたって誰にも迷惑はかけない。自分にとってnoteの更新は、ゴールがない長距離走のようだった。どこまで走ればいいか、ペース配分はどうしたらいいか、どこでどうやって給水すればいいか、何もわからない長距離走。スタートラインには立ってみるけれど、後退りばかりでたった一歩が踏み出せない。

立ち止まったままじゃ何も変わらない。それはわかっている。それでも、走り出したらもう止まれないんじゃないか。どんなに息切れして苦しくても、走り続けなきゃいけないんじゃないか。いつもその恐怖に勝てなかった。

でも、走り続けなきゃいけないなんて誰が決めたんだろう。走ることが辛くなったら、歩いたっていいじゃないか。歩くことにも疲れたなら、少しだけ休憩してまた走り出せばいい。そんな簡単なことに、いままでどうして気がつかなかったんだろう。

とりあえず走り出してしまえば、そのあとは案外どうにかなるのかもしれない。長距離走は苦手だけど、そう思ったらまだ走り続けられる気がする。

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